「認知症」とバイリンガルとの関係

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このコラム欄でユダヤ系米国人の認知科学(Cognitivescience)の専門家レラ・ボロディツキー氏の「言語と思考」の関係について紹介した。同氏は「言語の違いが認知能力に影響を与える。人々が根本的に違った言語で話すなら、考え方も違ってくる」と主張し、「言語は、空間、時間、因果関係、他者との関係といった人間の経験の基本的な側面さえも形成していく」と述べ、世界には「7000の言語」があるから、7000の世界が存在することになるというのだ(「ペンテコステと『7000の言語』の世界」2023年5月30日参考)。

認知科学者レラ・ボロディツキー氏 2017年11月、「TED」HPより

ところで、言語学者や認知科学の世界では、母国語以外の外国語をマスターしている人(バイリンガル)は、そうではない人より認知症の進展を予防できるのではないか、という興味深いテーゼが囁かれているのだ。

言語は考え、世界の動向を認知、観察するパワーを有している。認知症にかかることで母国語で形成された頭脳の中の思考パターンや世界観に支障が出て、物事を忘れたり、記憶を変形させたりといった症状が出てくる。一方、バイリンガル(2カ国語を話す人)、トリリンガル(3カ国語を話す人)は母国語以外の言語体系、それに伴う思考パターンや世界観を頭脳の中に有しているため、母国語の言語の世界が機能しなくなったり、支障が出てきた場合、他の言語体系にスイッチすれば認知症の進展を抑える可能性があるのではないかというのだ。

例えば、目の前に1匹の猫がいる。日本人ならすぐに日本語で「ネコ」と発言する。しかし、バイリンガルの場合、英語でネコを「キャッツ」、独語では「カッツェ」という言語が記憶されているが、それを使用せずに予備として言語領域の頭脳に持っている。予備があるという言語状況は脳の働きの上でいい影響があるというのだ。その結果、バイリンガルの場合、たとえ、認知症を治癒できないとしても、抑える可能性が出てくる。バイリンガルの場合、頭脳の言語領域で複数の言語体系を持っているから、一つがダメになれば、別の言語体系を機能させることで失う記憶を少なくできるといえるわけだ。

人間の記憶を担当するのは頭脳の中の海馬という領域だ。認知症はその海馬の機能に支障が起きる病だ。最近、認知症の進展を抑えることができる画期的な医薬品が製造されたというニュースが流れていた。アリセプトやイクセロパッチなどの医薬品を摂取できるが、それよりも母国語以外の外国語を多く学び、頭脳の中の言語スペアを増やしておくほうがいいのではないか。少なくとも、副作用を心配する必要はないうえ、経済的にもメリットだ。

学生時代から記憶力が良くなかったこともあって、記憶力のいい人に出会うとそれだけで尊敬心が湧いてくる。同時に、人間の「記憶」ということに強い関心がある。人間の記憶には選択姓が働いていること、忘却も記憶を保存するうえで重要な働きがあるという。コンピューターの消却機能は記憶すべき情報を保全するために必要な機能というわけだ。

「記憶」といえば、エピジェネティクスという言葉がある。DNAの配列に変化はなく、細胞の分裂後にも継承される遺伝子に関するもので、「細胞記憶」と呼ばれている内容だ。例えば、恐怖心はその人間が遭遇した体験に基づくが、その心理状況が直接体験していない後世代にも継承されるという。「細胞が記憶している」というわけだ。その詳細なメカニズムはまだ解明されていない(「『細胞』は覚えている」2013年12月5日参考)。

参考までに、独週刊誌シュピーゲル(5月13日号)はフランス人の睡眠研究の権威者、スタンフォード大学睡眠科学・医学スタンフォードセンター所長エマニュエル・ミニュー氏(Emmanuel Mignot)とのインタビューを掲載していた。同氏は「睡眠」が如何に重要かを述べていた。

短い睡眠で大きな成果を上げた人間が尊敬されるような雰囲気が一部にある。フランスのナポレオン皇帝は1日4時間、レオナルド・ダ・ヴィンチは1日1時間半しか眠らなかったとか、チンギス・ハーンは騎乗している時ですら眠ることが出来たなど、偉人と睡眠時間についてはさまざまな伝説が報じられているが、ミニュー氏は「睡眠はスポーツのようなもので、よく眠ることは健康に繋がると理解すべきだ」と述べていた。記憶力を維持するためには十分な睡眠時間が欠かせないのだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年6月10日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。