ガンダムは空想の世界の話じゃない–宇宙を目指してキャリアを積み重ねてきた米Axiom Space・田口優介氏の原点

CNET Japan

 宇宙旅行する民間人の数が劇的に増え、ますます身近に感じられるようになってきた宇宙。しかし、それでもまだ「自分とはかけ離れた世界の出来事」と捉えている人は少なくないはず。

 では、いままさに宇宙に携わっている人たちは、どのようなきっかけで宇宙と関わりをもち、なぜそれを生業とするようになったのか。この連載では、宇宙のさまざまな領域で活躍する「宇宙人(ビト)」の原点を探っていく。

Axiom Space APAC Regional Partnership Manager 田口優介氏
Axiom Space APAC Regional Partnership Manager 田口優介氏

 今回は、世界初となる民間宇宙ステーションの建造・運用を目指す米Axiom Spaceにおいて、日本を含むアジア・太平洋地域を担当する田口優介氏。2030年に退役する国際宇宙ステーション(ISS)の「次」を巡って名乗りを挙げている4社(企業連合)のなかで、最もリードしていると目される1社だ。これまでにどのようなキャリアをたどってきたのか、話を聞いた。

雲上人の宇宙飛行士も「同じ人間なんだ」

――まずはご自身の生い立ちについてお話しいただけますか。

 僕は1976年生まれで、ちょうどガンダム世代。放映されていたテレビアニメの内容はほとんど覚えていませんが、ガンダムのおもちゃを持っていましたから、おそらくそれが宇宙に最初に興味をもったきっかけです。漠然とカッコいいな、と思っていましたね。

 その後、1980年に家族みんなで米国へ引っ越しました。1980年代はスペースシャトル黄金期で、打ち上げのニュースに触れる機会が多かったですし、映画「スター・ウォーズ」の影響も大きかった。同世代の男子に将来の夢を聞くと、だいたいが大統領か宇宙飛行士という答えが返ってくるほどで、僕もなんとなく宇宙に行ってみたいな、という憧れがありました。

 1990年、中学生のときに日本に戻り、高校へ進学して大学受験。何を目指すかを考えたときにも、宇宙がいいと思っていました。ガンダムが好きだったので、その動力になっている核融合や原子力に関連する学科も一度考えましたが、その頃、ハッブル宇宙望遠鏡の成果が公表され始めていたんです。

 その映像が直感的にすごくきれいだなと思いつつも、何を見ているのかまでは詳しく分からない。そこに何が写っているのか分かるようになりたいと思うようになり、天体観測に関わる研究室がある神戸大学理学部の地球惑星科学科(現惑星学科)に進学し、博士号を取得しました。

――宇宙関係の学部に進んだわけですが、大学での印象的なエピソードなどはありますか。

 大学時代の経験で一番印象深かったのは、ハワイ島にあるマウナケア山の山頂に行ったときのことです。そこには日本のすばる望遠鏡もありますが、それとは別の望遠鏡や大学の研究室がもつ観測機器を使って、非常に貴重な体験をさせてもらえました。

 日本にも観測所はありますが、マウナケア山はおよそ4200メートルの高さにあって、空気が非常に澄んでいるので見える星の数が違います。本当に桁違いの美しさで、初めて訪れたときは、こんな星空はもう二度と見られないかもしれないと思って泣いてしまいました。満月の夜だと本を読めるくらい明るいこともわかりましたし、眼下に雲海が見えるのも、夕暮れ時に自分の影が雲に落ちたりするのにも感動しましたね。

――そこから本格的に宇宙の仕事をしたい、宇宙に行きたいという思いが強くなったきっかけはありますか。

 IACという宇宙関係の海外展示会があるのですが、JAXAが学生を毎年選抜してIACに派遣する活動をしていて、博士1年のときにその1人として選ばれました。ヒューストンで開催されていたこともあって、当時、宇宙飛行士としてNASAで訓練していた土井隆雄さんや野口聡一さんとお会いでき、直接お話しすることができたんです。

 初めて宇宙飛行士の方とじっくり生でお会いできたわけですが、話をしていてふと宇宙飛行士の人も「同じ人間なんだ」と感じました。それまでは雲の上の存在というか、アイドルみたいに感じていた方が、急に身近に思えるようになり、しかも宇宙飛行士の応募条件を聞くと、僕としてはあとは博士号を取れば満たせることもわかった。そこから宇宙飛行士への憧れが、急激に現実的な目標に変わったのを覚えています。

転職を重ねてステップアップしながら、ふがいなさを自覚することも

――就職活動時のお話も聞かせてください。

 大学で博士課程まで行っておきながら、自分は研究者には向いていないなと思いました(笑)。学生結婚したことや、就職活動を始めたことで社会に対する接点が増え、世の中への理解が少し進んだこともあってか、個人的に「研究者のままでは先がないな」という感覚が芽生えるようになったんです。特に天文の分野では一般企業で就職するのは難しく、天文台に勤めるか、研究者になるか、大学に残るか、そういう限られた選択肢しかありません。自分は研究者に向いていないと思ったこともあり、普通に就職することにしました。


 もちろんJAXAと、ISS「きぼう」日本実験棟などを運用しているJAMSS(有人宇宙システム)にも応募しましたが、結果は不合格でした。当時、多くの一般企業は博士の学生をあまり採用しない雰囲気があったため難航しましたが、過去に博士の採用実績がある日立ソフトウェアエンジニアリング(現日立ソリューションズ)に採用してもらえました。

 面接時点では、希望していた国際営業部に配属する話があったのですが、その年は新卒採用していないと言われ、衛星画像本部という部門に配属になりました。自前の地球観測衛星で撮影した画像の販売事業を展開しているDigitalGlobeという米国の会社があったのですが、日立ソフトがそこと提携して、アジア地域における衛星画像の販売権をもっていたんです。

 なので、その販売先、主にテレビ局や安全保障関係のクライアントに営業するのが僕の仕事でした。DigitalGlobeはGoogle Earthに地球画像を提供した最初の会社としても知られていますが、今は普通に誰でも使える衛星画像も、当時は高価でしたし、画像として見えるようにする処理も大変で、扱いにくいものだったんですよね。

――しっかり宇宙絡みの仕事に就くことができたわけですね。

 その部署には3年いて、次に当初行きたかった国際営業部に異動して、電子ホワイトボードのオセアニア地域での販売を3年間担当した後、もっと外の文化に触れたいと思い、友人の紹介で海洋センサーを販売しているワイエスアイ・ナノテック(現ザイレム・ジャパン)に2年半在籍しました。そのときに、たまたまJAMSSの友人から誘われて、30代後半、宇宙分野に戻るなら今が最後のチャンスと思い、宇宙飛行士のインストラクターになりました。

 ISS「きぼう」日本実験棟のサブシステムと呼ばれる管制系、電気系、通信系のインストラクターとして、各国の宇宙飛行士に教えるという仕事で、2年半で50人くらいに指導しました。その後は宇宙飛行士の訓練を管理する立場としてJAXAに出向し、大西卓哉宇宙飛行士を地上からサポートしたり、ロシアの宇宙船ソユーズにおける金井宣茂宇宙飛行士のサバイバル訓練などに同行したりしました。宇宙船が雪山や水上に不時着したときの対処を訓練するものですが、これも本当に貴重な体験でした。

 1年9カ月ほどJAXAで勤めましたが、民間に戻って営業したいという気持ちが強くなり、その後は宇宙ごみの除去サービスを開発しているアストロスケールへ転職しました。ウェブから就職について問い合わせても反応がなかったのですが、当時NASAのアジア担当だった方が同社に転職するという記事を見て、その人の連絡先を調べて問い合わせたら、運良く営業として入ることができたんです。

――お話を聞いていると、田口さんには人とのつながり、人脈を引き寄せる力があるように感じます。

 そういう意味ではめちゃくちゃ恵まれていると思っています。ただ、アストロスケールには半年くらいしかいませんでしたし、その次は衛星打上げサービスなどを手がけるSpace BDに転職しましたが、やはりそこも8カ月で辞めてしまいました。

 正直、これは私自身のふがいなさが原因です。JAXAやJAMSSに入ってちやほやされて、図に乗っていたんですね。働き方も自分でコントロールできるようにしたくて仕事を選り好みしていました。結果、任せられる仕事が減ってしまうことになったわけです。きっとアストロスケールやSpace BDでは「使いにくい人間だな」と思われていたでしょうね。

 それでもなお、来てほしいと言ってくれたのがGITAIでした。2018年12月にJAXAがきぼうでの作業の自律化を目指して数社に相談していたところ、自動化要素が19項目くらいあるうち、GITAIは13項目ほど実現できるとしてトップ評価を獲得していました。その記事を見て「面白い会社だな」と思って興味をもち、LinkedInで社長につながり申請してみたらたまたま営業の募集があり、2019年に入社することになりました。

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