「総務省文書問題」は、公文書の問題ではなく「機密漏洩問題」 — 有馬 哲夫

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早稲田大学教授 有馬 哲夫

朝日新聞デジタルが今年3月29日付で「行政文書が捏造呼ばわりされる国 アーキビストを生かしたくても」という記事を配信した。

高市大臣に関する「総務省文書問題」で、漏洩した「行政文書」を「捏造」と彼女が呼んだことを非難している。今の日本ではアーキビストがいても、彼らが扱う文書を大臣が偽造だといえば、それが通ってしまうので意味がないといいたいらしい。これは、ほかの朝日新聞の記事の例にもれず、ツッコミどころ満載の記事だ。

ツッコミどころの第一は、おどろおどろしく添付してある文書の写真映像だ。

「取り扱い厳重注意」と印字してある。読者のリテラシーが低いとみた、印象操作だ。というのも、この文書のオリジナルは印刷されたものではなく、電子テキストだ。「取り扱い厳重注意」とスタンプを押す必要がない。そもそもパソコンの中にある文書で、紙ベースの公文書として保管される前のものだ。

もっとも重要なツッコミどころは、「行政文書」と「公文書」を意図的に混同していることだ。アーキビストは「公文書」には関わっても「行政文書」にはほとんど関わらないだろう。

「行政文書」とは、官公庁の職員が業務上作成するものだが、それが全部公文書になるわけではない。公文書は、正式で最終的なもので、そこに落ち着くまでの、草稿や下書きやたたき台やメモなどは省かれる。むしろ、こういったものは、今回の「総務省文書問題」のような混乱を生むので、残してはならない。正式な最終版のものとは、要旨や結論が違うものが、作成過程では存在し得るからだ。また、公文書ならば、正式な最終版なので、当事者の内容についての確認を取らなければならない。

例えば会議の議事録を例にとろう。

議題や日時が前もって決まっているのだから、文書作成者は、あらかじめたたき台や下書きのようなものを用意しておくだろう。だが、会議そのものが予定変更でなかったり、予定した出席者が出席しなかったり、議論が想定外の展開をして、予定していたものとは大幅に違う内容になることが起るだろう。

その場合、文書作成者は、会議出席者、特に議長や委員長や大臣に内容を確認する必要がある。彼らは、その内容を確認したうえで、修正を求めたり、削除を求めたり、会議録そのものを残さないよう命じたりするだろう。

今回の高市早苗経済安全保障大臣のケースも、文書作成者が彼女に内容の確認を求め、確認した証の署名を求めていたら、このような混乱はなかっただろう。

また、松本剛明総務大臣が舌足らずの「行政文書」という言葉を使わず、「最終的で正式なものになる前の過程で作られたたたき台や下書きのようなものです」といっていれば小西議員もあれほど食い下がることはなかったはずだ。一般国民は「行政文書」といわれても「公文書」とどう違うのかわからないので、小西議員は「いける」と思ったのだろう。

朝日新聞の記事にしても、高市大臣がアーキビストの存在意義を認めていないかのような印象操作をしているが、彼らは正式で最終的文書が作成されたあとで、それらをどのように整理し、どのようなものを残し、あるいは捨て、残したものについてはカタログを作り、公開のために保存し、分類するかを決めるのであって、作成過程には立ち入らない。欧米ではかなりの専門職となっていて博士号をもつ人が多い。

つまり、「行政文書」は職員が作成し、保存するもので、完成前の草稿や下書きやたたき台やメモを含む。一方、公文書はそのなかの正式で最終的なものであって、アーキビストがその中から取捨選択し、公開に向けて整理し、保存するものだ。だから、「行政文書」では、基本的にアーキビストの出番はない。朝日新聞の記事は、まったくの牽強付会だということがわかる。

さて、今回問題になった「行政文書」なるものは、察するに、高市大臣のレクチャー(職員の大臣に対する説明)に関する、たたき台や下書きのようなものだったのだろう。また、日付もなく、作成者も示されていないものが混じっていることから、作成過程のものであって、最終的で正式な文書でなかったことはあきらかだ。なにより、高市大臣は記憶にないといっている。内容について本人に確認した形跡もない。

だから、高市大臣は「捏造」だ、「ありもしないもの」だ、といったのだ。彼女からすればそう表現することになるだろう。

ところが、立憲民主党の小西ひろゆき議員やこの問題を報じたマスコミは、作成中の「行政文書」を最終的で正式な「公文書」と意図的に混同し、「捏造」を「公文書」の改竄や書き換えと、これまた意図的にとった。彼らにとっては、そうしたほうが問題が先鋭化するからだ。マスコミにとっても、話しが、面白くなり「売れる記事」になる。

彼らはこう追及する。高市大臣は自分のあやふやな記憶をもとに、公文書に書かれていることを「捏造だ」「ありもしないものだ」と嘘をいっている。その証拠に、文書作成に関わった職員に聞き取り調査したところ「捏造したという認識はない」と口を揃えていっているではないか。

そして、職員たちが「捏造したという認識はない」といっている以上、「行政文書」は「捏造」されておらず、それらを「捏造」だといった高市大臣は嘘をついている。都合が悪いので逃げているだけだ。そして、「捏造でなかったら、大臣も議員も辞職する」といったのだから高市大臣は約束通り、大臣も議員も辞職すべきだ。

しかしながら、前に述べたように、高市大臣の発言と職員の証言は矛盾しない。つまり、高市大臣からすれば、本人に記憶がなく、内容確認もされていない、叩き台や下書きは、「捏造」であり「ありもしないことを書いたもの」になる。

一方、作成した職員たちは、最終的に完成し、正式のものになった「公文書」を意図的に改竄したり、手を加えたりしたわけではないので、「捏造したという認識はない」ということになる。矛盾はしていない。

少し考えればわかりそうだが、小西議員はじめ、高市大臣糾弾に立ち、クビを狙っている立憲民主党の議員たちは「わかりたくない」のだ。

小西議員は、3月20日参議院予算委員会の質疑で総務省の今川拓郎官房長に「捏造しなかったのですね」という同じ質問を6回もした。今井氏は「捏造したという認識はないといっている」と同じ回答を6回繰り返した。「捏造はしなかった」と今川氏にいわせられれば、「捏造だ」という高市大臣の発言と真正面から矛盾する。

「捏造という認識はなかった」では、認識はなかったかもしれないが、「捏造」に類することはあった可能性はある、で逃げられてしまう。結局、今川氏は最後まで「捏造という認識はなかった」で通してしまった。

実に不毛なやりとりだった。国会開催にかかる費用はかなりのものだが、巨額の血税を浪費した。

それより深刻なのは、文書管理の杜撰さと、このような危険な文書を政治利用するとわかっている野党議員に渡す職員が総務省にいるということだ。

前にも述べたように、正式な最終版になるまえの、「行政文書」を残すことは危険なことだ。つまり、今回のように、実際にはレクを受けていないのに、受けたことを想定した下書きやたたき台が残ると、レクはあった、それを大臣は受けた、ということになってしまう。それを政治利用される可能性がある。これらの「行政文書」はこの意味で「取り扱い厳重注意」なのだ。

「行政文書」が紙ベースならば、これらの正式な公文書を作成する過程で作られた下書きやたたき台は、モノとして残り、邪魔になるので、破棄されるだろう。だが、電子テキストならば、いちいち削除しないかぎり、文書として、あるいは最終版の前のヴァージョンとして、残ったりするだろう。

たしかに、履歴と日付けはパソコンの中にデータとして残るが、文書の文面に出てくるわけではない。また電子的に改竄できないこともない。今回のように、印刷した文書の文面だけを出してくると、最終的で正式のものと思い込んでいるので、こういったデータをチェックすることを思いつかない。内部文書を漏洩させた職員がこういったことも想定してやったのだとすれば悪質極まりない。

もとより、小西議員の主張する「放送法の公正原則の解釈変更」は、あったとしても、現行放送法に違反しているとはいえない。総務省は放送免許を受けたものを指導、監督する義務があるからだ。

これについてはいろいろいう法学者たちがいるが、占領中に政府とは独立の行政機関である電波監理委員会が所掌していたものを、1952年のこの委員会と関連法の廃止によって吉田茂総理が郵政省(現在の総務省)に移管した歴史的経緯があるので、彼らの得意の「解釈」でどうにかなるものではない。

ということで、高市元総務大臣は不法行為をしていたわけではないのだから、公益通報制度が適用される不正行為の告発にはあたらない。そうではなく、公務員の守秘義務に違反した国家公務員法違反の犯罪だということになる。8年前のことなので、もう時効だという指摘があるが、問題は起訴できるかどうかなどではない。

総務省は電波を扱う重要官庁である。携帯電話の基地局やリレー網に関わる機密漏洩で中国やロシアのスパイが暗躍していたことが以前に報道されたことがある。戦争ともなれば、電波や通信設備についての情報は高度の軍事機密情報となる。

つまり、総務省のこの機密漏洩は、国家安全保障上の重大な問題だといえる。その重要性は「放送法の公正原則の解釈変更」どころではない。

今回の「総務省文書問題」は、「総務省機密漏洩事件」として真相を解明しなければならない。

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