復活したドミノ理論の誘惑と代償

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戦略研究の嚆矢であるカール・フォン・クラウゼヴィッツが約200年前に執筆した古典的著作『戦争論』は、ロシア・ウクライナ戦争に大きな示唆を与えてくれます。

彼は、戦争には想定外の事態が待ち受けていると強調しています。「戦争は不確実性を本領とする。軍事的行動の基礎を成すところのものの四分の三は、多かれ少なかれ不確実性という煙幕に包まれている」と。

これが戦争を分析する上で有名になった「戦争の霧」という概念です。

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戦争の霧

ロシアは短期間で簡単にキーウ(キエフ)を占拠できるだろうと想定して、ウクライナに侵攻したようです。開戦時において、ロシア軍の総兵力はウクライナ軍の4.5倍でした。ロシアの軍事費にいたってはウクライナの10倍でした。ロシア軍とウクライナ軍の主な装備を比べれば、戦車は5対1、戦闘機は11対1だったのです。

軍事の世界では「攻撃三倍の法則」というものがあります。攻撃側が防御側を突破するには、三倍以上の戦力が必要だということです。ロシアは、この条件を満たしてウクライナに侵攻しました。にもかかわらず、ウクライナは首都キーウに攻め込んだロシア軍を撃退しました。

このように戦争には高い不確実性を伴いますが、だからといって、予測が全く不可能ということではありません。数々の検証に耐えた戦略理論は我々の強い味方です。標準医学の理論が病人の診断に不可欠なように、優れた戦略の理論は戦争の分析に役立てることができます。

勝利へのこだわり

アメリカの大手シンクタンクである「大西洋評議会」が、最近、注目すべき報告書を発表しました。タイトルは「勝利に備えること—ウクライナがロシアとの戦争に勝つことを助ける長期的な戦略と平和の確保」です。ここで著者たちは、かなり強気の政策を提言しています。

第1に、西側はウクライナを勝利に導き、ロシアを敗北させる目標を追求すべきとしています。この提言では、クレムリンの戦略目的をウクライナ国家とウクライナのアイデンティティを破壊することと推察しています。アメリカや同盟国は、このロシアの目的達成を何としても拒否すべきだと記されています。

第2に、ワシントンはロシアの核の恫喝に怯むべきではない、ということです。同じような主張は、リアリズムを「でたらめ」と切り捨てるタカ派のエリオット・コーエン氏(ジョンズ・ホプキンス大学)による「交渉の呼びかけは、エスカレーションに対する我々の恐怖を戦略的に無意味に暴露するようなもので、実質的にロシアが我々の頭の中に入り込み、我々を混乱させることを招くので無意味であり、危険である」との議論と重なります。我が国のウクライナ・ホークが声高に叫ぶ「プーチン思う壺論」も、これに似たロジックに基づいています。

第3に、欧米諸国は、ウクライナの戦力を向上させるために、装備や訓練、経済面で支援することがうたわれています。要するに、この報告書の主旨は、アメリカとその同盟国が、戦争のエスカレーション・リスクを冒しても、ウクライナがロシアを打ち負かすことを全力でサポートすべきだということです。

ドミノ理論の亡霊

「勝利に備えること」の政策提言は、改訂版「ドミノ理論」に依拠しています。「ドミノ理論」とは、ある一国が共産化すると隣国が次々に共産化すると警告する、冷戦期にワシントンの政策立案者に広く共有されていた学説です。この理論が導く政策処方にしたがい、アメリカのジョンソン政権は、南ヴェトナムの共産化を防ぐために軍事介入して、共産主義国家であるソ連や中国の手先と見なした北ヴェトナムと激しく戦いました。

しかしながら、アメリカは物量で北ヴェトナムを圧倒していたにもかかわらず敗退しました。同時に、アメリカが懸念していた、共産主義の「赤い波」が東南アジアを席巻することも起こりませんでした。ドミノ理論は間違っていたのです。その重い代償は、300万人を超えるヴェトナム人と約6万の若いアメリカ人の尊い命の犠牲でした。

ヴェトナムの悲劇から約半世紀を経た今、ドミノ理論は復活しようです。「勝利に備えること」は、ロシアがウクライナで勝利を収めることを許せば、今度はポーランドやバルト三国などの他のヨーロッパの国家を次々と襲い、最終的には国際秩序を脅かすことになると示唆しています。

それを端的に表しているのが、報告書の次の一文です。すなわち、「もしロシアが勝利を収めれば、NATO同盟国も含めて、この地域の他の国々が次(の餌食)になり得るだろう」という、我々に恐怖心を与えるような予言です。

ここから導かれる結論は1つです。すなわち、ロシアがヨーロッパを支配する悪夢のような事態になるのを防ぐには、ウクライナでロシアを完全に敗北させる以外に道はないということです。くわえて、報告書の著者たちは、国際平和と安全にとって死活的に重要な領土保全原則の「命運」は、ロシアを敗北させることにかかっているとも力説しています。

こうした主張は、ワシントンの外交エリートであるリベラル・ホーク(タカ派)の「ブロブ」や対ロ強硬派のヨーロッパ指導者によく見られます。

ロシアがウクライナに侵攻する直前に、オバマ政権の元高官だったエイヴリン・ファーカス氏は、「アメリカの指導者は…必要であれば戦争に備えるべきである。もしロシアが再び勝つようなことがあれば、我々はウクライナだけでなく、国境を越えた世界秩序の将来についての危機から抜け出せなくなるだろう」と主張していました。

フィンランドのサンナ・マリン首相も1月のスイスでのダボス会議で「もしロシアが戦争に勝ってしまったら、何十年とその侵略の振る舞いを見なければならなくなるし、他の国にも『侵略はして良い』というメッセージを与えてしまう、ウクライナが勝つ以外の選択肢はない」と決意と不安をにじませる発言をしました。

侵略の連鎖という妄想

このような政策提言は、はたして妥当なのでしょうか。私は、そうは思いません。現状打破に挑戦する国家が、ドミノ倒しのように次々と隣国を制圧することなど、ほとんどあり得ないからです。

政治学者のスティーヴン・ウォルト氏(ハーバード大学)による「脅威均衡理論」が明らかにするように、現状打破国の冒険的拡張行動は他国に脅威を与えます。そして、脅威にさらされた諸国家は、その源泉である挑戦国に必死で抵抗するのが通例なのです。

この脅威均衡理論が正しければ、ウクライナや西側諸国はロシアによる侵略の連鎖と国際秩序の崩壊といった妄想にとらわれなくてもよいということです。万が一、ロシアがウクライナを超えて他のヨーロッパ諸国の生存を脅かそうとした場合、NATO諸国は今より固く結束して、より強力な対抗措置をとる可能性が極めて高いのです。その結果、クレムリンの野望は打ち砕かれるでしょう。

クラウゼヴィッツは防御が攻撃より強力であると説いています。これは今でもそうです。戦略理論家のスティーヴン・ビドル氏(コロンビア大学)は、ウクライナ戦争を分析して、「攻撃側の突破は適切な条件下ではまだ可能だが、十分な補給と作戦予備を背景に、準備された縦深防御に対して、これを達成するのは非常に困難である」と断言しています。

ウクライナ軍もロシア軍の相手の防御を崩す過程において、激しい戦闘と相当な犠牲を覚悟しなければなりません。ましてやウクライナを制圧できないロシアが、優勢なNATOの防御を通常戦力で崩壊させるのは、ほとんど不可能でしょう。

間違った因果推論

現代版ドミノ理論は、台湾有事の分析でも猛威を振るっています。この理論に取り憑かれた人は、ウクライナでロシアが敗北しなければ、「侵略は許される」というメッセージを世界に発することになり、それを中国の習近平国家主席が学習して、台湾に侵攻することになるだろうと主張するのです。ヨーロッパで倒れた1つのドミノの駒は、なんと何千キロも離れたアジアの駒を倒すことになるという驚くべき考えです。

アメリカのマイケル・マッコール議員は、「ウクライナが陥ちると中国の習主席は台湾を侵攻することになる」とCNNに語りました。これに痛烈な反論を行ったのが、『シカゴ・トリビューン』紙のコラムニストであるダニエル・デペリス氏です。

彼は「アメリカ人は、このような単純で事実無根の発言を下院外交委員会の委員長がすることをとても、とても懸念すべきです。習近平は台湾侵攻を決断する可能性は大いにあります。しかし、そうだとしても、習近平はウクライナで起きたことに基づき重みのある決断を下さないでしょう。習近平はハードパワーの指標、例えば、中国共産党にそのような作戦を行うための訓練が行われたか、そのための装備があるかどうか、台湾の抵抗力はどうか、に基づくだろう」とまっとうな主張をしています。

中国の対外行動がウクライナ情勢に左右されないことのエビデンスもあります。中国外交部の王毅外相氏は、2022年3月8日に「台湾問題とウクライナ問題は性質が異なり、全く比較にならない。最も基本的なことは、台湾は中国の領土の不可侵の一部であり、台湾問題は完全に中国の内政問題である」と発言しました。

我々は権威主義国や独裁国の指導者の発言を精髄反射のように「プロパガンダ」と退ける傾向があります。確かに、政治指導者は相手を騙そうとして「ウソ」のメッセージを発信することはあります。ところが、国家間のリーダーや外交官たちは、思ったほど互いにウソはつかないことが、国際政治における戦略的なウソの研究から明らかにされています。

王発言が、台湾侵攻を隠匿するとともに、台湾を支援する国を油断させるためのウソだったとするならば、中国人民解放軍はそろそろ台湾を攻撃してもよさそうなものですが、今のところ、その気配はありません。

台湾の併合は習近平が掲げる「中華民族の偉大な復興」の1つの目的ですが、にもかかわらず、中国が台湾に侵攻していないのは、戦略国際問題研究所が最近に公表した机上演習の通り、北京の指導者が、その企ては「早期に失敗」しそうだと判断しているか、甚大なコストを払うことになり、迅速で安上がりな勝利をまだ収められそうにないと考えているからでしょう。

オースチン・ダマー氏(防衛政策アナリスト)が鋭く指摘するように、「『ウクライナを救えば台湾も救われる』と考える政策立案者や戦略家は、自分自身を欺いている。ヨーロッパでロシアを衰退させ、そしてアジアへ優雅に軸足移動を実行するなどと言うことは、災いを招くだけでなく、アジアにおける中国の覇権の条件を促進する可能性さえある」と思います。

要するに、ウクライナ情勢次第で中国の出方が決まるなど、あり得ないことなのです。日本やアメリカの安全保障のカギを握っているのは、ロシアのウクライナでの勝敗ではなく中国の行動です。

ウォルト氏が喝破したように、「現在、ロシアのウクライナ戦争はより直接的な問題であるが、より長期的な課題としては中国が挙げられる。アメリカ(そして日本、引用者)の経済的将来と安全保障全体は、クリミアとドンバスを(ウクライナかロシアの)どちらが支配することになるかで決まるわけではない」のです。

むしろ、ウクライナへの西側の支援と中国封じ込めはトレードオフの関係です。アメリカと同盟国がウクライナに戦略資源を投入した分だけ、中国の侵攻を抑止することに犠牲が生じます。

我々は、トランプ政権の高官だったエルブリッジ・コルビー氏の発言にもっと真剣に耳を傾けるべきです。すなわち、「中国との戦争に必要な準備はできている、台湾・アジアとウクライナ・ヨーロッパの間にトレードオフはない、という主張は成り立たなくなってきている。(アメリカも日本も)明らかに十分な準備ができておらず、トレードオフの関係はある。事実を直視した方がいい」ということです。

戦争と評判

歴史上、多くの戦争は国家の評判や威信、名声の名の下に行われてきました。その背景にあるのは、弱腰の姿勢は敵国に付け入るスキを与えて、その侵略を助長するのではないかという指導者の恐怖です。ジョナサン・マーサー氏(ワシントン大学)は、この政治的に強力な議論に反論しています。すなわち、国家の評判を賭けた戦争に価値はないということです。

その後、国家の評判と信頼性に関する研究は格段に進歩しました。紛争や危機で引き下がった国家は、侵略に抵抗する決意を疑われて挑戦を受けやすくなるかどうかについては、政治学者の間で意見が割れています。

ダリル・プレス氏(ダートマス大学)は、こうした学習効果はなく、国家の現状打破行動はバランス・オブ・パワーによって決まると主張しています。

他方、アレックス・ウエイシガー氏(ペンシルベニア大学)とカレン・ヤリ=ミロ氏(コロンビア大学)は、過去の行動が決意や威嚇の評判に普遍的な影響を与えるわけではなく、同じような危機や紛争において、指導者の決意の評判に関する判断に強く影響する一方で、あまり似ていない危機や紛争では、弱い効果しかないという研究結果を発表しています。

どちらが正しいとしても、侵略の「ドミノ理論」は支持されません。「侵略が許される」というメッセージが世界全体に広がった結果、あちこちの現状打破国がこれを学習して勢いづき隣国を次々に征服することなど、国際政治の常識からすれば、ほとんどありえないということです。

アメリカと同盟国は、用済みとなった三流の理論をあえて持ち出す必要もなければ、勝利と敗北の二項対立に拘泥されるべきではないでしょう。

世界レベルの国際政治研究の成果は、「国際秩序の守るためにロシアを敗北させなければならない」とか「中国の台湾侵攻を防止するためにウクライナでロシアの勝たせてはいけない」「もしロシアのウクライナ侵略が成功して、国際社会がウクライナを見捨てた場合には、日本だって同じことが起こりうる」(小泉悠氏)といった言説を安易に信じないほうが賢明であることを我々に教えています。

ロシアとの戦争目的は、ウクライナの主権と独立を守ることにより正当化されます。この点について、ジョージ・ビービ氏(クインシー研究所)は、「ウクライナはすでに、ロシアがウクライナの独立を抹殺する能力を持たないようにするという、この戦争の最も重要な目標を達成している」として、バイデン政権に和平交渉に乗り出すよう促しています。

アメリカ元NATO大使のイヴォ・ダルダー氏は、ウクライナ情勢の分析を難しくしている戦争の霧の中に見えたことを率直に語っています。すなわち、「ウクライナの勝利はなさそうだ。不可能ではないが、戦車やあらゆるものが流れ始めたとしても、なさそうだ…この戦争がウクライナの勝利で終わるという考えは、試してみるべきだが、それに基づいて政策を構築すべきではない」ということです。

終末的大惨事により霧が晴れる結果になることだけは避けたいものです。

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