ナチスの強制収容所の囚人が発明した持ち運び可能な手回し式計算機「クルタ計算機」とは?

GIGAZINE


by Morgan Davis

現代では多くの人々がスマートフォンの電卓アプリを使っていますが、過去には電子式ではなく機械式の計算機も使われていました。1948年に登場して以降、約20年にわたり地球上で最高のポータブル計算機だった「クルタ計算機」は、ナチスの強制収容所に収容されていた囚人によって発明されたとのことで、テクノロジー系メディアのArs Technicaがその歴史についてまとめています。

The hand-cranked calculator invented by a Nazi concentration camp prisoner | Ars Technica
https://arstechnica.com/science/2021/12/the-remarkable-history-of-the-hand-cranked-curta-mechanical-calculator/

かつての人々は、暗算できないほど複雑な計算を行う場合、紙やペンを用いるしかありませんでした。17世紀になると対数の原理を応用したアナログ式計算用具である計算尺が発明され、人々は紙やペンがなくても複雑な計算ができるようになりましたが、計算尺は処理できる桁数に限界がありました。また、19世紀には歯車などの機構を利用した機械式計算機が量産されましたが、いずれも重くて高価なものだったとのこと。

by Joe Haupt

1902年にオーストリアのウィーンで生まれたユダヤ系オーストリア人のクルト・ヘルツシュタルクは、事務機器の製造販売を営む家業に携わってオーストリアやハンガリー、チェコなどの国々を回り、銀行や工場に機械式計算機を販売しました。当時の機械式計算機はかなり洗練されていたものの、ヘルツシュタルクは顧客たちと関わる中で、「持ち運び可能なサイズの計算機」に需要があることを認識し始めました。ヘルツシュタルクは当時を回想して、「人々は繰り返し、『それはいいけれど、もっと小さいものはありませんか?』と言いました」と述べています。

ヘルツシュタルクはより小さくて持ち運び可能な機械式計算機を考案するにあたり、既存の設計をそのままにして部品をすべて小さくするだけでは不十分であり、抜本的な再設計が必要だと考えました。「このような機械はどのような形であれば使えるのでしょうか。立方体や定規ではダメです。片手で持てるように、円筒形でなくてはなりません」「片手で持てるほど小型化できたなら、もう一方の手で調整できます……中身をデザインする前に、まずは外側から理想のマシンをデザインすることから始めました」と、ヘルツシュタルクは回想しています。

片手で持てる円筒形というデザインを基にして、ヘルツシュタルクは指でスライダーを回転させることで数字を入力する機構の設計に入りました。そして、マシンの中心に回転式のステップドラムを配置し、ドラムに付属した2つの歯を加算と減算に対応させることで、たった数ミリドラムをずらすだけで加算と減算を切り替える方式を考案。さらに、スライダーをはじいたりクランクを回転させたりすることで、乗算や除算にも対応させることに成功しました。

1937年の時点で、すでにヘルツシュタルクは持ち運び可能な機械式計算機の本質的な設計を完了していたとのこと。その後は部品を機械加工してプロトタイプを製造するだけという段階でしたが、ここでナチス・ドイツが台頭します。


1938年にオーストリアはナチス・ドイツに併合され、ユダヤ人の父を持つヘルツシュタルクにも身の危険が迫ります。幸いにもヘルツシュタルクの家は、ドイツ軍向けの機械と工具を生産することで工場の操業を数年間続けることができましたが、1943年には従業員がイギリスのラジオを聞いたとして逮捕され、証言するよう求められたヘルツシュタルクも強制収容所に移送されてしまいました。

そしてヘルツシュタルクは、ドイツ中部のブーヘンヴァルト強制収容所に収容されました。当時の回想でヘルツシュタルクは、「ナチスが誰かを絞首刑にしたら、死ぬまでずっと見ていなければなりませんでした。ひどいものでした」と述べています。

ヘルツシュタルクはドイツのV2ロケットを製造する工場で働かされましたが、やがてドイツ人の上級エンジニアがヘルツシュタルクを連れ出し、小型計算機の開発を行うよう命じたとのこと。エンジニアは設計に必要な備品をヘルツシュタルクに与え、戦争に勝利した後でヒトラーに小型計算機をプレゼントできれば、ヘルツシュタルクもアーリア人になれるだろうともちかけたそうです。

優遇措置によってどうにか収容所生活を生き延びたヘルツシュタルクは、1945年4月11日にブーヘンヴァルト強制収容所の囚人が解放されると、設計図を持ったまま7kmほど離れたヴァイマル市まで歩き、機能している工場を見つけてプロトタイプを作ることに成功しました。ところが、その後すぐにソ連軍が乗り込んできたため、ヘルツシュタルクは計算機の部品が入った箱を持ってウィーンまで逃げたとのこと。

終戦後、ヘルツシュタルクは小型の機械式計算機に興味を示したリヒテンシュタイン政府の支援を受け、Contina AG Maurenという会社のテクニカルディレクターに就任。そして1948年、ついに持ち運び可能なサイズの機械式計算機である「クルタ計算機」の初代モデルが発売されました。

by Matt Blaze

クルタ計算機は会計士やエンジニア、測量士、ラリーカーのドライバー、天文台の研究者などから人気を集め、1954年には桁数を増やした2代目モデルも発売されました。大学院生時代にクルタ計算機を使ったことがあるという天文学者のピーター・ボイス氏は、クルタ計算機を「素晴らしい精密機械」として覚えているとのこと。経験豊富なユーザーは手元を見ずに計算することもできたそうで、「望遠鏡に持ち込んで、夜中の2時に何か計算する必要がある時に鉛筆と紙の代わりに使えたのが助かりました」と、ボイス氏は述べています。

クルタ計算機は小型の電卓が普及するまでの約20年間にわたり合計15万台が製造され、最後の1台は1972年に出荷されたとのこと。ヘルツシュタルクはリヒテンシュタインに住み続け、1988年に86歳で亡くなりました。

ドイツにある数学博物館・Arithmeumのディレクターを務めるアイナ・プリンツ氏は、「クルタ計算機は20世紀に発明された中で最も洗練され、最も成功した計算機の1つでした」「クルタ計算機を非常に詳しく見てみると、指で操作できるようにしたい場合、機械的に削減できる部分はほとんどありません」と述べています。

記事作成時点でもクルタ計算機を現役で使っているユーザーはいないと思われますが、時には地下室や屋根裏部屋などに忘れ去られたクルタ計算機が見つかることがあり、eBayでは1400ドル~3000ドル(約18万8000円~約40万3000円)で販売されているとのことです。

by gorekun

この記事のタイトルとURLをコピーする

Source

タイトルとURLをコピーしました