このまえ美味しいステーキを食べてきたのだけれど、いま思い出すことと言えば食べ終えたあとのなんとも言えない満足感であって、味そのものではないような気がするのだ。
間違いなく美味しかったはずなのだけれど、その味を忘れてしまうというのはどうしてなのか。考えてみました。
あの日食べたステーキの味を思い出すために
2年前の冬の話。新宿西口ヨドバシカメラで新しく出たカメラを触っている時に携帯が鳴った。
僕は普段なるべく電話に出ないようにしている。これは忙しいからとかではなく、なんとなく準備なしに会話が始まるのが苦手なのだ。受け答えをシミュレーションしながら落ち着いた場所まで移動して、それからかけなおすようにしている。
この日はなぜだかわからないけれど、少し迷ったあと電話に出た。母からだった。僕は手に持っていた展示品のカメラを置き、「ちょっと待ってね」とだけ告げてお店を出た。
その時、目の前のステーキ屋さんに行列ができていた。
母からの電話にぼんやりと受け答えしながら、僕はなんとなく目の前の行列に加わった。外で電話をするために、身の置き場が欲しかったのかもしれない。
列に並びながらしばらく会話をして、電話を切った。電話が終わったんだから行列から抜けてもよかったのだけれど、なんとなくそのまま並び続け、身を任せるように入店した。
そのお店がここ、ル・モンド新宿店である。
僕にはあまり並んでまで食べたいと思う物がない。ラーメン屋さんに並ぶくらいならファミレスに入る。せっかちだし、それほど食事に対してこだわりがないのだ。
ここル・モンドはいつ見ても列ができているお店だな、くらいの印象だった。そういうお店に、普段ならわざわざ並ばないだろうところを、不意にかかってきた母からの電話によって並ばされたのだ。
その時食べたのはリブロースだったと思う。違うかな、正直あまり覚えていない。
電話の内容がちょっと重めだったので、ステーキを食べながらもいろいろ考えてしまったのかもしれない。申し訳ないことに注文したメニューもあやふやならば、肉の味すら覚えていない。
あれからずいぶん時間が経って、今回の企画である。ステーキと聞いて僕はまずこのル・モンドを思い出した。
あの時食べたステーキがどんな味だったのか、もう一度食べて、今度はちゃんと味わいたいと思ったのだ。味わっておかないと、ル・モンドのステーキさんに申し訳ないだろう、と。ずっと思っていたわけではないけれど、なぜだかさっき強くそう思った。
それでいま、僕は再びル・モンド待ちの列に並んでいる。今回は電話をしながらではなく、純粋に、お店に入るために。僕の前には5人、僕の後ろにも5人、さて並んでいるのは合計何人でしょう。
待つこと20分。さっきのクイズの答えだが、正解は店内にも3人並んでいたので14人でした。
ル・モンドでは並んでいる間にメニューを渡され注文を決める。
ダブルなんて今回を逃したら絶対に食べないだろうなと思い、あまり考えずにダブルを注文した。
注文した後で店内に通され、黙々と肉を食べる人たちの横顔を見て、少しだけ怖気づく。
店内に招き入れられてからは早かった。導かれるままに上着を脱ぎ、カウンター席に座った。
ル・モンドはカウンターだけのお店である。横並びに10席ほど。コロナ対策のため座席間にはアクリルボードが立てられており、狭いながらも個室間があって落ち着く。
2022年はいろいろあった。そんなの誰もが同じだとは思うが、それにしてもいい加減にしてくれと思う出来事がいくつかあった。
どんな一年も一年である。時間は流れて誰しもに年末年始がやってくる。
着席して5分もしないうちに注文したステーキがやってきた。ジュージューいう鉄板で提供されるお祭りスタイルではなく、ANAの飛行機みたいな落ち着いた柄の皿に乗ってやってきた。
完璧だ。そう思った。
サーロイン(下)とヒレ(上)のダブルである。ずっと見ていたい。
あまり長く写真を撮っているのも失礼なので、カットした肉の写真を何枚か写真に収めたらカメラをフォークに持ち替えた。
いい感じに油の乗ったサーロインは表面がカリっと、中はしっとりと、歯ごたえがありながら噛むほどにジューシー。醤油ベースのたれが肉の影から小声で美味しいねって言っている。
ヒレ、すごい。カットされていないローストビーフの塊かなと思うくらいのやわらかさである。しかもこの質感なのに重くない。ステーキ2枚は正直自信がなかったのだけれど、一口食べたところでいけると確信した。これならむしろ4枚いける。
こんなに何かに集中したのは久しぶりだった。僕の視界には肉しかなく、その肉が減っていくにつれて正気に戻っていくようだった。
2年前に食べたステーキの味を思い出すための再訪だったはずなのだけれど、食べて数時間経ってこれを書いている今、まいったなと思っている。またほとんど覚えていない。
あの日は母からの電話で頭がいっぱいで肉の味を忘れていたのだとばかり思っていた。
だけどそういうわけではなかったのかもしれない。たぶん美味しくて、今回と同じように集中して一生懸命に食べていたら、ぜんぶ終わっていたのだ。
ステーキは過ぎ去り、あとには現実が残る。
帰り道はずいぶんすっきりした気分だった。神社でお祓いしてもらった後のような、歯医者で治療が終わった後のような、苦労して長い原稿を書き上げたような。とにかく店を出た瞬間、目の前で新しい年が始まったのを感じた。
美味い肉を食べるということは区切りをつけるということなのかもしれない。何に?もちろん人生に、である。肉を切るように、人生にナイフを入れるのだ。何を言っているのか。
というわけで来年も忘れてしれっと食べに来たいと思います。