鈴木宗男氏に不都合な戦争の歴史

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鈴木宗男氏が、また話題を作った。自身の公式ブログで、「ゼレンスキー大統領は『武器を供与してくれ、少ない』と訴えている。欧米諸国は協力する姿勢を示しているが、それでは戦争が長引き、犠牲者が増えるだけではないか」とし、「自前で戦えないのなら潔く関係諸国に停戦の仲立ちをお願いするのが賢明な判断と思う」と述べたのである。

鈴木宗男氏、ウクライナ側に「物価高で世界中が悲鳴を上げていることを考えるべき」「勇気ある決断を」(スポニチアネックス) – Yahoo!ニュース
 ロシア通で知られる日本維新の会の鈴木宗男参院議員が16日、自身の公式ブログを更新。ロシアによるウクライナ侵攻を念頭に「ゼレンスキー大統領は『武器を供与してくれ、少ない』と訴えている。欧米諸国は協力

さっそくロシアのメディアである『スクープトニク』日本などが取り上げている。

鈴木宗男氏ブログ ゼレンスキー大統領に人命守る「名誉ある撤退」の重要性説く
日本維新の会の鈴木宗男参議院議員は6月16日付けの自身のブログ上で、武器供与を訴えるウクライナのゼレンスキー大統領に欧米諸国が協力する姿勢を示していることについて、「戦争が長引き、犠牲者が増えるだけ」「名誉ある撤退は『人の命を守る』上で、極めて大事なこと」との考えを示した。

6月12日の「ロシアの日」にロシア大使館で開催された式典でロシアとの友好を誓っていた鈴木宗男氏だが、さながら「日本維新の会」ならぬ「日本親露の会」代表と言うべき大活躍である。

鈴木氏の政治的立場については多くの方々がコメントしており、私自身もツィートした。

そこでここでは少し踏み込んだ話をしたい。「自前で戦えない」のなら、事実上の降伏とも言える形で停戦を申し出ることが妥当だ、という鈴木氏の主張についてである。

多くの人命及びその他の重大な価値が関わる政策判断だ。当事者の主体的な判断を尊重すべきで、そもそも外部者が軽々しく指図するのは不適切である。日本の同盟国であるアメリカや、昨日キーウを訪問した日本のG7の仲間である仏・独・伊をはじめとする友好諸国も、そのような立場をとっている。

それにもかかわらず、鈴木氏は、結論は自明であり、それをウクライナに言い聞かせたい、と考えているようだ。果たしてその態度に裏付けはあるだろうか。

ヨーロッパの歴史を見てみよう。たとえば第二次世界大戦の際、ヒトラーのナチス・ドイツは、東欧諸国、ベルギーやオランダといった中立国のみならず、フランスも占領してしまった。1940年6月の段階で、ドイツと戦い続けるのはイギリスだけとなった。

イギリスは明らかに劣勢であり、国内ではドイツとの和睦を唱える有力政治家も少なくなかった。イギリスは、ドイツ空軍の空爆にさらされて防戦一方の状態であった。しかし1940年5月に首相に就任していたウィンストン・チャーチルは、それでも徹底抗戦の路線をとり、閣内から和睦派を一掃した。そのとき、ヨーロッパで孤立無援の状態であったイギリスが何とか持ちこたえられたのは、「レンドリース法」で強力な軍事支援を行ったアメリカの存在があったからである。

もし「自前で戦えないのなら潔く停戦をお願いするのが賢明」とチャーチルが考えていたら、世界史は大きく変わった。イギリスの立場も弱くなり、現在の国際社会の秩序も存在していなかっただろう。鈴木宗男氏が、チャーチルに「停戦せよ」と説教する様子を想像するのは、辛い。

日本人にとって、もっと痛々しい事例は、日中戦争だろう。満州事変で国際的に孤立した大日本帝国は、1937年にはさらに「支那事変」を開始した。蒋介石の中国国民党政権は、奥地の重慶に退いて抗日戦争を継続したが、中国の主要都市のほぼ全てを日本軍に占領され、工業生産力のほとんども失った状態であった。それでも戦争を継続できたのは、外国からの支援があったからである。

この蒋介石政権を支えた、いわゆる「援蒋ルート」のうち、仏印ルートはフランスがドイツに占領されたことによって消滅した。ソ連からの援助も、1941年日ソ中立条約の締結とともに停止となった。最後まで継続したのが、イギリスとアメリカからの軍事援助であった。

それでも当初のビルマルートは、1942年の日本軍によるビルマ侵攻で遮断された。しかし英領インドを拠点にして、インド東部からヒマラヤ山脈を越えての空路による支援は続けられた。これによって持ちこたえた国民党政府は、第二次世界大戦終了時には「戦勝国」とみなされ、国連常任理事国の地位まで獲得することになった。全ては英米からの軍事支援が生命線として残り続けたことによる結果である。

鈴木宗男氏が、現在は台湾に移っている中国国民党の幹部に、「自前で戦えないのなら潔く停戦を申し出よ」と説教する姿を想像するのは、やはり心が痛む。

「力による一方的な変更」は認められない、という国際社会の原則が生まれたのは、この頃であった。満州事変を1928年不戦条約の違反とみなしたアメリカは、現実を追認して、力による変更を認めることはしない、という立場を表明した。いわゆる「スティムソン・ドクトリン」である。このドクトリンは、1932年に表明された当時は、すぐには現実に影響を与えなかった。しかし第二次世界大戦の帰趨が決まった後の戦後処理の過程において、大きな意味を持った。

「スティムソン・ドクトリン」によって導入された考え方は、今日では国際社会の原則になっている。たとえば2014年にロシアに併合を宣言されたクリミアが、今日でもなおロシア以外の諸国によってウクライナ領だとみなされ続けているのは、「スティムソン・ドクトリン」によって確立された原則的な考え方があるからである。このドクトリンを通じて、アメリカは、中華民国のみならず、国際秩序そのものに対して、強力な支援を提供したのだと言える。

もちろん、私はこのような史実を参照して、どこまでも徹底抗戦することだけが常に正しい、と言いたいわけではない。たとえば日露戦争の際、日本は、主要な戦場での勝利を収めた後、アメリカに調停を依頼して、ポーツマス条約の締結を通じた終戦を達成した。ロシアとの総合的な国力の差を認識したうえでの決定であった。「日比谷焼き討ち事件」で多数の死傷者を出すほどの民衆の反対も引き起こした妥協的な終戦であった。

ただし、それでも日本が戦争の終結を国益にかなうと考えたのは、主要な戦闘での勝利を通じて、極東におけるロシアの南下政策を止めるという最高目標は達成したと判断したからである。そうでなければ、戦争はより長期にわたって続いただろう。

戦争をどのように終わりにするか、終わらせることができるか、は、高度に政治的な作業である。様々な事情と可能性を考慮しなければ、方向性の判断もできない。しかし、だからこそ、軽々しい発言をして、当事者の尊厳を軽視するかのような態度を見せることは、日本の国際的な威信にもかかわる。国会議員の先生方には、できる限り慎重に振る舞っていただきたい。

鈴木宗男氏 同氏HPより bennymarty/iStock