コロナで失われた共生意識?:親はなぜ「警察」と叫ぶのか

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2020年から始まったコロナ禍と呼ばれる警戒態勢も、世界的に緩和が進行中です。警戒の象徴でもあるマスクについてはWHOも厚労省も着用の緩和を謳い始めています。

特に都内は5月に入り各所で様変わりが顕著になっている印象があります。通勤ラッシュとされる時間帯は、コロナ前よりは多少混雑が緩和されているようにも見えますが、いわゆる「満員列車」状態に戻っています。

日本人の働き方に定着するかと期待された「テレワーク」も、大半の企業や事業所では以前の「デスクワーク」に戻ったようです。休日の人出も、ほぼコロナ前と変わらない印象です。

ちなみに、スウェーデン政府は4月にはCOVID-19を警戒が必要な感染症から除外しコロナ前の日常をひと足早く回復させています。日本では、TVニュースは検査陽性者数を報じて警戒を呼びかけ、まだまだマスク着用者が大多数ですが、着実にコロナ前の日常に戻りつつあると実感できます。

コロナ前に戻るために、考えておきたいこと

一方で、このままの流れで「なんとなく」コロナ前の日常に戻って良いのかなあ…と心理学者として心配になるところもあります。その一つは、長引く社会的な活動の規制の中で「共生意識」が薄れてしまっているリスクです。

共生意識とは定義は様々ですが、概ねは文字通りで「他者と生活環境を共有して、共に生きている」という意識です。共に生きる隣人を大切に思う意識を含む場合もあります。

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ダイバシティや異文化を対象に論じられることが多い印象があるかもしれません。ですが、隣人だけでなく、ただすれ違っただけの人、同じ電車やバスに乗り合わせただけの人など、ともに暮らす「社会」を共有する人の全てに対して感じる必要があるものです。

この意識なくして社会の調和はありえませんので。

共生意識はメンテナンスが必要

ただ、人を始め、動物は本質的に極めて利己的です。社会脳を持つ私たち人間でさえも、子ども時代にはたくさんの共生意識の教育を受けましたよね。

例えば、昭和の小学校では「一人はみんなのために、みんなは一人のために」というスローガンがよく掲げられたものでした。このスローガン、現代的には批判もありますが、「共生意識は教育で身につける」ということを表していると言えるでしょう。

教育で身につけるものの多くは、メンテナンスをしなければ忘れてしまいます。したがって、大人であっても、大人であるからこそ、常に共生意識のメンテナンスを心がける必要があるものとも言えるでしょう。

コロナ禍で共生意識はどうなった?

では、コロナ禍での共生意識のメンテナンスはどうだったでしょうか? 残念ながら、コロナ前よりメンテナンスが損ねられていたリスクがあります。これはコロナ禍の最盛期から懸念されていたことでもありますが、社会活動が制限される中で「共生」を深く実感する機会が減ってしまっているからです。

特に「自分(たち)だけが使うもの」である家に籠もることが多いと危険です。「みんなが使うもの」と「自分だけが使うもの」の区別が曖昧になる場合もあり得るからです。

街角の出来事から

このことを象徴していると言えるかどうかはよくわかりませんが、休日の街角ではコロナ前ではあまり見られなかったある光景が増えている印象があります。その光景とは、人が行き交う比較的狭い歩道で、子連れの親が少々興奮気味に「警察!! 警察!!」と口にしている場面です。

一見すると平和そうな親子連れが「警察!」と叫んでいる場面は穏やかではありません。気になってしまいますよね。ゆっくり観察することはしませんでしたが、私もついつい注目してしまいました。

実は、このような場面に1週間少々の短期間で複数回遭遇しました。たまたまかもしれませんが、続いて遭遇すると増えている印象を持ってしまいます。

その概ねとしては…

  • 3歳から5歳くらいと思しき子どもが歩道を走っていた
  • 親はそれを後ろから見ていた
  • 子どもが通行人の荷物などにぶつかった
  • 親が怒り、通行人と口論に…

という展開だったようです。

こういう場合、「誰が悪かったんだ」という犯人探しに陥りがちです。通行人が悪意を持ってぶつかったのか、親が子どもの安全配慮を怠ったのか、子どもが衝動的に駆け出したのか…、深層はわかりません。法的な責任問題などは専門家が議論することなのかもしれません。

ですが、いずれにしても、痛い思いをした子どもが可愛そうですね。みんなが「道路はみんなが使うもの」「道路は子どもには危険がいっぱい」という前提で行動していたら、お互いにもっと慎重に行動していたのではないでしょうか。

また、親が子どものことで感情的になるのは一般的だとしても、「警察!」という言葉からは双方に非を押し付けあって対立してしまった可能性が示唆されます。共生意識に伴う「相互理解」の姿勢も感じられません。ここからも「共生意識」の危機を連想してしまうのは私だけでしょうか。

身近なところから、共生意識を再確認しよう

もちろん、このような出来事に遭遇しただけで「共生意識の危機」を無闇に謳うことは避けたいところです。しかし、コロナによる各種制限が緩和される中で、人々の社会的活動は間違いなく増えるでしょう。すると、「みんなが使うもの」を共有している実感が重要になる機会も増えることになります。

その時、共生意識がみんなの中で機能していないと、もっと大きなトラブルや不幸のきっかけになるかもしれません。

極端な発想かもしれませんが、どこかの国への侵攻を決断した誰かも「自分だけが使うもの」に囲まれる日々を送っていたことでしょう。その中で緊張感や葛藤はありながらも絶妙なバランスで「利害が対立する隣人」と共生していたことを忘れてしまったのかもしれません。共生意識を回復できないと、紛争もトラブルも長引いてしまい誰も幸せにはなりません。

人は人の行動に学ぶ「モデリング」を備えた動物です。誰かが共生意識を発揮し平和を作るように心がけると、他の誰かの平和を作る行動に結びつきます。逆に誰かの利己的な主張がまかり通ると、それがモデリングされてみんなが共生意識を見失うかもしれません。そういう社会に陥るのは私には良いことには思えません。

コロナ前の日常を取り戻しつつある今こそ、コロナ前には当たり前だった共生意識をみんなで再確認することも必要なことなのかもしれません。

杉山 崇(脳心理科学者・神奈川大学教授)
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