日本の医療の抱えている複雑な課題

アゴラ 言論プラットフォーム

大阪に異動して2か月

大阪に異動して2か月近くが経った。31歳の時に米国ユタ大学に留学する前には予想だにしなかった研究者人生を歩んでいる。今でも、私は外科医の人生を送っていたら・・・・と考えることが多い。

そして、つい最近まで二度と東京以外で職に就くことはないと考えていたので、人生は何が起こるかわからない。本当は今頃、沖縄の美しい海を眺めながら、泡盛でも飲んで、のんびりと人生の終盤を楽しむ予定だった。

大阪 ferrantraite/iStock

私の職歴は一番下にあるように転々としている。フーテンの寅さんなみだ。いろいろな併任もあるので一見するとグチャグチャに見える。(詳細な月については間違いがあるかもしれない)

国立病院・府立病院・市立病院・小豆島・民間病院・内閣官房で勤務していた経験は、AI化・デジタル化された医療を考える上で大きな財産となっている。一定の立ち位置でしか医療を眺めることができなければ、日本の医療の抱えている複雑な課題が見えてこない。

一部の方にはこの貴重な経験の重要性を理解していただいているが、多くの方には理解していただけないことが残念だ。日本の医療は多面的な課題を抱えているが、それらの課題は複合的に絡み合っているので、個別の課題の解決では、綻びが大きくなるだけで、医療システムそのものを新築するようなレベルの発想転換が必要だ。

診療情報データの収集も、医療機関を通して集めるのは、日本の現状では難しい。形ばかりのインフォームドコンセントでは必ず問題が生ずるし、慎重に時間をかければ、医療機関における負担が大きくなる。画像や血液検査の結果を患者本人に戻し、患者さん自身が自由意思でデータベース登録すれば、医療機関の負担軽減につながると思う。

データを患者さんに戻すシステムの構築は大変だが、みんなでデータを集めて、医療をよくしていくという国家目標があってもいいとのではないだろうか。そうすれば、いつでもどこにいても自分の検診・診療情報へのアクセスできるので、旅行や出張中に急病にかかっても病歴に基づいた対応が可能となる。主治医に気を使いながらビクビクしてセカンドオピニオンのための診療情報提供書を依頼する必要もなくなる。

内閣府のAIホスピタルプロジェクトでは、医療現場でのニーズをとらえ、企業と医療現場の連携を推進して、かつ、日本医師会にも協力をしていただき大きな枠組みを構築してきた。日本医師会・医療機関・企業をつながなければ、日本の医療の改革はできない。「働き方改革」も待ったなしで、デジタル化が急務である。

1977年6月-同年12月  大阪大学付属病院第2外科研修医
1978年1月-同年12月  大阪府立病院救急医療専門診療科
1979年1月―同年6月  町立内海病院外科(香川県小豆島)
1979年7月―1981年3月 市立堺病院外科
1981年4月―1984年9月 大阪大学医学部付属病院第2外科研究生・医員
この間、谷病院(生野区)、藤本病院(羽曳野市)などでアルバイト。福島区の福島病院で1か月近く院長代理をしていたこともある。
1984年10月-1989年9月 ユタ大学ハワードヒューズ医学研究所研究員
(途中でユタ大学の助教授となる)
1989年10月―1994年9月 財団法人癌研究会癌研究所生化学部長
(36歳で研究室のトップに据えていただいたことには感謝しかない)
1994年10月―2012年3月 東京大学医科学研究所教授
1995-2011年 同ヒトゲノム解析センター長
1996-99年大阪大学医学部臨床遺伝学教室教授
2000-05年理化学研究所遺伝子多型研究センター
2005-10年 同上ゲノム医科学研究センター長
2010年 国立がん研究センター・研究所長
2011年 内閣官房参与医療イノベーション推進室長
2012年4月―2018年6月 シカゴ大学医学部教授
2018年7月―2022年3月 がん研究会プレシジョン医療研究センター所長
2022年4月― 国立研究開発法人 医薬基盤・健康・栄養研究所理事長 (こんな高齢者でもいいのかと思う)

学会で200字以内の略歴を求められるが、すべてを記載するのは無理な話だ。


編集部より:この記事は、医学者、中村祐輔氏のブログ「中村祐輔のこれでいいのか日本の医療」2022年5月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。

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