BLOGOSは「役割」を果たせたか – 御田寺圭

BLOGOS

提言型ニュースサイトであり、同時に言論人によるオピニオン・プラットフォームでもあったここBLOGOSが、5月31日にサービス終了となる。サイトの更新は3月31日に停止する。つまり今日だ。よって、私の連載も今日が最後になる。

平素よりBLOGOSをご愛顧いただき、誠にありがとうございます。

2009年10月5日にサイトオープンして以来、多くの皆様にご愛読いただいておりましたBLOGOSですが、2022年5月31日をもってサービスを終了させていただくことになりました。

BLOGOSは多様な意見を左右の隔たりなく同列に並べることをモットーに、提言型ニュースサイトとして運営してまいりましたが、12年の間多くのオピニオンを発信するなかで、ニュースサイトとして一定の役割を果たせたのではないかと考えております。

サービス終了となりますが、BLOGOSが培ってきたノウハウは、LINEのメディア事業に活かしてまいります。

長きにわたりサービスを運営してこられたのも、ご参加いただいたブロガーの皆様、媒体の皆様、そして読者の皆様のおかげです。

心からお礼を申し上げます。

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BLOGOS『BLOGOS サービス終了のお知らせ』(2022年3月1日)より引用
https://blogos.com/feature/blogos_close/

私が「物書き」としてのキャリアをスタートさせるきっかけをつくってくれたのは、ほかでもないBLOGOSだった。だれも読むことのなかった弱小個人ブログの書き手にすぎない私を、当時の編集長である大谷氏が見出してくれたのがすべてのはじまりだった。

BLOGOSに掲載されたこともあり、私の文章は多くの人の目に留まるようになった。他のウェブメディアからの依頼を受けられるようになった。現在の私はいくつものメディアで仕事をしている。出会いや別れさまざまにあった。しかしいずれのご縁も、その連なりの元をたどっていけば、やはりこのBLOGOSというプラットフォームにその端緒がある。

私にとってははじまりの地であり、そして今日まで寄稿を続けてきたホームグラウンドのような場所であっただけに、このサイトがインターネット空間から永久に失われてしまうことの寂しさは筆舌につくしがたい。

「ウェブ言論」ブームの黄昏

インターネット上でニュース解説やオピニオンを発信する、いわゆる「ウェブメディア」と呼ばれる媒体はBLOGOSが先駆け的存在のひとつだ。

BLOGOSの成功のあと、出版社やメディア企業から同じような形式のメディア・プラットフォームが数多く出された。そこから多くの「論客」が登場した。ウェブメディアは実社会の出来事をウェブに持ってきて議論するこれまでのニュースサイトとは逆に、ウェブから実社会に議論を興すための言論発信拠点として一時代を築いた。

輝かしい時代を経た現在、残念ながらそのいずれも、運営が順調であるとは言いがたいようだ。PVと広告収入に依存するビジネスモデルの問題はもちろんあるが、それ以上にウェブメディアの「言論人が意見を表明し、それを多くの読者が読む」という情報のハブとしてのありかたが、時代の耐用年数を失いつつある。

紙媒体ほど「ゆっくり」でもなければ、SNSほど「即時的」でもない、両者の中間に位置するウェブメディアという言論空間は、紙媒体とインターネットとをつなぐ架け橋のような役割をも想定してデザインされた空間だった。紙媒体で名を知られた言論業界の名手たちがインターネットに活躍の舞台を移すとき、その場所はもっぱらBLOGOSをはじめとするウェブメディアだった。

しかし現在、インターネットの言論空間はウェブメディアからSNSにとって代わられようとしている。SNSが圧倒的なシェアを拡大し、その他の媒体の勢いを奪いつつある。

新聞や雑誌や書籍で言論人が書いたことを人びとは実社会で話題にしていた時代があった。その紙媒体で活躍した言論人たちがウェブメディアに移っていったあとも、基本的な構造は変わらなかった。だがいまはそうではない。SNSで言論人やインフルエンサーが発信したことを直接受け取り、そしてSNS上でコミュニケーションを行い、タイムライン上ですべてが完結してしまう。発信力のある書き手は、あえて「ひらかれたメディア」を選ばず、クローズドな有料メディアを利用するようになった。

SNSの言論が実社会にフィードバックし、政治や社会に影響を与える事例が珍しくなくなった。他方で、近年のウェブメディアから発信された言論がそのような影響を持った例はほとんど聞いたことがない。もはや雌雄は決してしまったようにさえ思える。SNSが「ひらかれた言論」の覇権を掌握しつつある状況において、BLOGOSが「一定の役割を果たした」とサイトの運営終了を宣言したのは偶然ではないだろう。

「ストック」の言論の消滅

Getty Images

SNSで発信される言論や、そこで交わされるコミュニケーションは、文字どおり「タイムライン」という川の流れに絶えずさらされており、その場にとどまることがない。

白熱した論争も、瞠目に値する発見も、記録されるべき結論もみな、タイムラインの向こう側に遠ざかっていく。川の流れに乗って去っていく落ち葉のように、その所在は見えなくなる。さらに時間が経てば、人びとは過去に議論があったことを完全に忘れてしまう。そうしてまた同じ話題で、同じ論争をし、同じ結論、同じ発見に至る。やはりその記録は水の流れとともに忘却される。さながら「無限ループ」のように繰り返される。

ブラウザやアプリをリロードするたび、つねに「最新の情報」が上流から流れてくるSNSという言論空間は、人びとの関心を否応なしに「いま」この瞬間だけに縛りつけてしまった。

SNSにおいて交わされた議論、見出された答えを、水流に逆らって残る石碑に刻みつけることには、ほとんどの人が意欲をもたなくなった。「いま」話題になっているもの、「いま」共感されているもの、「いま」悪として石を投げられているものだけが、毎日毎日次々とやってきては消費される、その営みを繰り返していることに、だれも疑問を持たない。

BLOGOSはサイト消滅と同時に、そこにあった記録も(別のサイトでアーカイブされているものを除いて)一緒に消えてしまう。移ろい流れるウェブ言論という世界で、それでも「記録」を残そうとしたBLOGOSは消え、その跡地にはまたSNSという水流が浸食してくるのだろう。ネット社会が「フロー」の言論によって支配され、「ストック」の言論の場所がますます失われている。

「いまの正義」だけが語られる社会

Getty Images

SNSがだれにとっても当たり前のインフラとなりつつある時代、タイムラインの水流に抗い、「ストック」することを志したメディアが少しずつ姿を消している。

ネット空間から「記録」が失われてしまえば、私たちは「いま」にしか関心を持てなくなる。その時その時の「ただしさ」に脊髄反射的に反応し、言葉を消費していく世界がすぐそこまでやってきている。紙媒体が主流だった時代から活躍していた――「いまだけのただしさ」を言いっぱなしするような風潮に抗っていた――はずの言論人でさえ、SNSのコミュニケーションに最適化された「“いま”流行している正義」をためらいなく語るようになってきている。

だれもがフラットにつながる「記録係のいない世界」のなかで、一気に盛り上がる感情のうねりだけが支配していく。BLOGOSはそれに一貫して逆らっていた。新着記事はSNSで一瞬だけ言及されて、話題の肴にされることもあった。記事がSNSで話題になったことはだれも覚えていないが、しかしその記事は残っていた。それにこそ、このサイトの意義があった。

SNSの時代においては「だれが言ったかではなく、なにを言ったかが重要になる」と言われていた。だがこの時代においてもっとも大切なのは「なにを言ったかではなく、なにが記録として残されるか」だ。

SNSでは、当意即妙なコメントがバズるし、不届き者に対する正義の怒りに多くの共感があつまる。だがそれだけだ。そのバズも火柱もいつかは熱を失って消える。そこにはなにも残らない。過去現在そして未来のために言葉を残す役割を、だれもやらなくなってしまう。

BLOGOSが失われる「ネットメディアの黄昏」の時代のなかで、絶え間ない情報のフローに抗う「ストック」の大切さをあとから気づくことになるのかもしれない。編集者たちは「一定の役割を果たせた」と述べているが、立場上そう言わなければならないだけで、本音ではまだまだ使命を感じていたはずだ。かれらに代わって伝えたい。このウェブメディアは毎日猛烈な勢いで流れていく情報の水流に楔を打ち込み、私たちに「いま」以外の視点を与えてくれていた。

SNSがやがてインターネットの言論やコミュニケーションを覆いつくす日がやってくるのだろう。そんな時代だからこそ、いまなにを発言するべきかではなくて、いまなにを未来に伝えるべきかを、私たちはもう一度考えなければならない。BLOGOSがいなくなるのなら、その仕事は私たち一人ひとりに託されたのだ。

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