円安が急速に進み、1ドルが125円台に一瞬乗っかったとか。おかげで30代くらいの若者がインフレを初体験できつつある。先日、立ち食い系ソバ屋に入ったら(当然混む時間を外して)、何と瞬間6%も値上がりしていた。僕も「インフレ君、久しぶりやな」だった。
ソバの値上がりは大生産国であるヒグマの王国が大暴れしている影響もあるので多少オーバーながら、円安によるインフレはいろんな物に忍び寄っている。
何で円安なのか。1つは、日本の経済的な競争力が劣化しているから。もう1つは、黒田日本銀行が超3つくらいの金融緩和を頑なに踏襲しているから。前者については3/22に、後者については3/20に書いた。とはいえ、これらは円安というか日本経済が劣化した真因ではない。
真因は日本の政治家や経営者がリスクを避けてきたことにある。好意的に書けば、目の前のリスクを上手にコントロールしてきた。政治家は「次の選挙までは」、経営者は「自分の任期が終わるまでは」と考え、安全運転に徹している。国民の評価を損なわないため、社内の評価を保つためである。もっと言えば、現状維持であり、日本が豊かだった時代の反映でもある。
しかしながら、リスクがなければリターンもない。国民の金融資産に対して政府は、「銀行預金ではなく株式などの有価証券投資を心がけよう、預金のようなリスクがほぼゼロの投資からはリターンが得られないから」と金融リテラシーとか称して諭している。「でもねえ」である。政府自身がリスクを回避しているのだから、それを国民が真似るのは当然でしかない。
では、政治家や経営者が避けてきたリスクとは何なのか。それは設備、従業員、優れた技術などの経済的資源を集中させることである。裏側から見ると競争することによる優勝劣敗であり、負けた者(従業員、企業)の退出である。退出者が出ることで、勝者に資源が集中していく。この優勝劣敗が社会的に望ましくないと思うのなら、有効なセーフティネット(大怪我を負わないための制度)の構築をすればいい。
この30年間、政府は企業を潰さないよう徹底してきた。企業が倒産すれば失業者が出て政府に対する批判が高まる。1990年代に入り、社会的影響力の大きな銀行が左前になりかけたせいもある。
極論を承知で書けば、生産性の低い、もしくは評価の低い企業が潰れるのは当然である。生産性の低い、もしくは評価の低い従業員の給与が引き下げられ、最悪の場合、解雇されるのも当然である。
しかし、そんなことをすれば(そんなことを主張すれば)評判が落ちる。ヒグマの王国の大将みたいと言われる。でも日本は民主的な国だから、本当にヒグマの王国の大将みたいだと思うのなら、その大将の首を飛ばせばいい。また、潰れた企業や解雇された従業員の再就職を支援し、再生させる制度を手厚くすればいい。
企業や従業員が可哀想だから潰さないよう、解雇しないようにしよう、自分の評判を落とさないようにしようと間違った方向を選んだため、すべての企業と従業員と経営者が「頑張っても頑張らなくても、評価はほとんど一緒や」「会社も潰れんことやし」となり、誰も真面目に自分の能力を発揮しようとしなくなる。
従業員は社内政治だけに関心を持つ。国民と政治家は互いに表面を褒め合い、互いの傷になるべく触れないようにしている。他の企業や他国の動向に無関心を装う。つまり(自分が勤めている企業や日本という)内なる文化や制度が最大の関心事項であり、結果としてガラパゴス化し、世界の流れにそっぽを向き、競争力を失う。
過去の典型例は東芝である。「チャレンジや」とトップが内向きな号令を掛け、決算数値を粉飾した。このため経営は瓦解に向かってしまったのだが、政府は依然として東芝の全部を助けようとしている。また「チャレンジ」の印象が悪くなった。そもそも使う方向が180度違っていた。というかチャレンジ本来の意味ではない使い方だったので、チャレンジには罪がない。
最近の典型例も指摘しておこう。年金生活者に5000円を配ろうという老人だまし、子供だまし、猫だまし案である。そんな財政的な余裕が日本にあるのか。余裕をひねり出したとして、その資金をもっと有効なことに使えないのか。「子供の年玉やあらへんし」5000円で誰が喜ぶのか。「ほんま、アホやね」である。某新聞社が徹底批判していたのだが、むしろそんなアイデアしか思いつけないような政治家も徹底批判すべきだった。
いずれにせよ、日本の内向き文化を変えないことには経済の劣化がますます進む。本当に貧乏になったと国民の多くが実感してはじめて目が外を向のか。その時から日本の大改革がスタートするのか。