ライオン看板を見にいく

デイリーポータルZ

ライオン看板というものがあるのを知っているだろうか?

日本で最古のライオン看板を掲げるお店の店主さんに知り合うことができたので、正体を教えてもらうことにした。

実験と暇つぶしが大好きな会社員。顔芸が特技。

前の記事:学生時代のグループ名はダサくてユニークだ

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ライオン看板とは何だろう?

“ライオン看板”という言葉を聞いた瞬間は、それが一体何なのかわからなかった。

ライオンの形をしている看板なのかな?もしかしてライオンがいる動物園にある看板のことなのだろうか?想像は膨らむばかりだが、どうやらそうじゃないらしい……

何も知らない筆者が予想で描いたライオン看板​

ひらさわ呉服店というお店の看板として掲げているらしい。まずはそのお店がある西新井へ向かうことにした。

看板があるひらさわ呉服店へ向かう

上陸しました、西新井駅

実は初めて上陸した西新井駅。まるで宇宙船のような駅のつくりに目を奪われてしまった。地元の人によるとこの建物もじきに建て替えになるらしい。見られるのは今のうち……

歩くこと12分ほど、どデカい看板が現れる

明らかに目立つ建物が見えてきた。大きな文字で「ひらさわ呉服店」と書いてある。あの看板に間違いない!

あまりにデカすぎてテンションがあがる

ついにライオン看板とご対面

やっと会えましたね!

これが噂のライオン看板……実物を見ると、お店の端から端に渡る大きさと迫力に目を奪われる!青と白の配色も特徴的だ。

しかし、一体どこにライオンの要素があるのだろうか?パッとみただけではわからない……

ライオン要素を必死に探してみる
外観をじっと見ていると、なんと2月から8割引セールをやっているらしい。そんなに値引いて大丈夫なのだろうか

正直じっと外観を見ているだけでは何もわからないので、お店にお邪魔して店主さんにお話を聞くことにした。

ドキドキ!呉服屋って実は入るの初めてなので緊張する!
中へ入っていくと沢山の鮮やかな着物や御祝着が!!
ひらさわ呉服店の店主である平澤健二さん(88歳)が快く迎えてくださった

空襲の火が迫るが奇跡的な逆風が吹き助かった

この”ライオン看板”って、いつ頃どのようにして出来たのですか?看板が出来た当初の状況についても知りたいです

ここは元々大地主さんのおじさんの家だったのです。専売でたばこ屋をやっていました

元々は呉服屋ではなく、タバコ屋だったのですね

タバコがものすごく売れた時代でした。専売制度があったため、この辺でたばこ屋をやっているのはここだけでした。たばこを売る権利と一緒に、昭和18年に親父がここを買いました。その後、東京大空襲が起こりました

昭和20年ですね

3月9日深夜から10日未明まで東京大空襲が発生して、アメリカ空軍のB29爆撃によって一般市民10万人余が亡くなり東京下町は焼野原になりました

焼け野原に…ということは、この家も焼けてしまったのですか?

火が80メートルほど至近まで来た際に、奇跡的に季節風が吹いて火の向きが逆転したんです。そのおかげで家は焼けずに済みました

逆風が吹いて、このお店は守られたんですね…!!

奇跡的な話にビビっています

このライオン看板が完成したのは昭和22年。戦後の昭和20年から、皆が商いをしなければ食べていけないという状況でした。戦争があったせいで、ほとんど男手がなくなってしまったんです

働くのも一苦労ということですか

今じゃ考えられませんが、定職を持ちたくても職場がないんです!働きに行きたいと思っていても工場や大きい商店は焼かれていました。それならば個人で小さく商いを始めようというのが昭和22年〜23年ぐらいです。売るものすら無い中でそれぞれが個人で商売を始めたわけです

売るものが無いのに商売を?

そうです。なので皆工夫してして売るものを作っていました。例えば、豆を煮て煮豆屋さん、お芋を煮てお芋屋さんとかね。お汁粉屋さんと言っても、芋汁子なんです。お芋を煮込んでその中に人工甘味料のサッカリンやズルチンを入れて甘みをつけて、お汁粉屋として売る

壮絶な時代ですね……

配給制度でもらえるのは、今で言うと小さいお茶碗に一杯山盛りのご飯で1日分。しかも必ずしも全て白米ではなく、雑穀などの他のものが混じっている状態でした。そんな状況で皆暮らしていたわけです

お茶碗一杯で一日分!?辛すぎる…信じられない

本当に厳しく、切ない時代でした

平澤さんが目の当たりにした戦時中・戦後の話はこちらのYouTubeにて配信しているので、ご興味のある方はこちらから見てください!

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粗末な建物を看板で隠したのがライオン看板のはじまり

戦後は家や建物はすっかり焼かれてしまったので、材料がない中で焼け跡の廃材やトタンなども利用して組み合わせて造った”バラック”という建物に皆住んでいて、そこで商売を始めていました。

なるほど、ほったて小屋のような感じでしょうか

市民や半分素人の大工さんが試行錯誤して建てていたので、そんなに立派な家は建てられない。せいぜい間口が二間半から三間ぐらいです。すると最大で6メートルぐらいの家しかないんですよ。奥行きも狭く四畳半から六畳一間、そこにトイレと台所が付いているぐらいです。

※一間:1.81メートルほど

それは結構狭いですね。家族それぞれの部屋とかは当然ないですよね?

六畳一間で親子4人が暮らしているのが当たり前の時代でした

なるほど…今じゃ考えられない……

その後、色々なところで「〇〇商店」と書いてある旗を出しはじめました

店の前にですか?

ええ、のぼりみたいにね。誰が始めたのかわからないけど、そのうちに上野浅草あたりでだんだんトタン看板を出すようになりました。これには粗末な建物を看板で隠すという意味合いもありました。

内はだらしないけど看板だけ立派だ、たてがみだけ立派なライオンと一緒だ!ということで、”ライオン看板”という名前で呼ばれるようになったのです

なるほど!お店を立派に見せるための策だったのですね

ライオン看板はトタンでできていることと、看板の文字が下書きなしの一筆書きが特徴です。それ以外はライオン看板とは呼びませんよ

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看板の文字は必ず一筆書きで

こんな大きな看板の字を下書きなしでできるんですか?

当時は字を書く職人がえんぴつで下書きをして書くのではなく、終わりまで一呼吸で書きました。卓越した職人でないとできません

すごい……!!

これが下書きなしなんて信じられない!

ライオン看板はたまたま昭和46年に火事になった際に書き直したのですが、当時は看板を塗り替えるのに8万5千円、字を書いてもらうのに7万何千円だかかかって。それはちょっと高いんじゃないの、負けなさいよって話をしていました

確かに高いかもしれませんね

それを聞いた私の母が、「看板の字を書いてもらうのに負けてと言うのは縁起じゃないから、ちゃんとご祝儀を用意して待っていたほうがいい」と言いました。お酒を1本、2本、3本と用意して、ご祝儀も3千円と5千円と1万円を用意しろって言うんです

わざわざ3種類!?なぜでしょうか?

看板の字が上手にかけたら1万円。まぁまぁだったら5千円。ダメだったら3千円でいいって言うのです(笑)

その場で判断するんですね(笑)

今のパソコン文字とは全然違うわけです。見事なのはね、筆でスッスッと押していくように書くのです!当時看板の職人は都内で3人ぐらいしかいなかったと言われていましたね

一番最初は左の方からくる和式の書き方と右の方からくる洋式の書き方で真ん中でぶつかってました。昭和30年代に今の形に書き換えられています

看板が出来た当初の写真。昭和20年

ちなみに、この富マークはなんですか?

突然現れる富のマーク

富は母の名前です。以前は父親の名前「政司」から取った「政」と書かれていましたが、父親が早くに亡くなったので母親の名前に変更しました

ご両親の名前からきていたんですね!

東京一大きいライオン看板になった理由

それにしても本当に大きな看板ですよね。こんなに大きなものになった理由ってあるんですか?

当時私は小学生で、ある日学校から帰ってきたら、家の周りの生垣が全部切られていて。「どうするの?」ときいたら、ライオン看板を作るんだ!って親父が言いました。「どうせ作るなら東京一の看板を作りたい」と

デカさにこだわる姿勢、かっこいい

看板の下に人が立つとその大きさがよくわかる

よくよく説明を聞いたら、V字の構造の看板を足して真っ直ぐにすると 全長十一間(約20m)になる。そうすると上野や浅草の百貨店の間口よりも広いんだ!と父は自慢げに言っていました(笑)

楽しそうにお父さんの話をする

百貨店と張り合ってたんですね(笑)

看板の中央の角がカーブしているのは、単純にV字にするよりも看板が長くなるからだそうです

百貨店に勝ちたくてわざわざ曲げたらしい

張り合いかたが本気ですね。その看板がたったとき、どんな気持ちになりました?

呆れ返ったね!なんでこんな大きい看板立てたの?って子供心に思いました。だって普通のライオン看板の2倍〜3倍もあるんですから!馬鹿じゃないのって思いましたよ

かなり目立ちそうですね!

町中に沢山のライオン看板があるような時代でした

でも今は全くありませんよね。いつ頃から少なくなりましたか?

昭和30年以降でしょうか。先ほど申し上げた通り、戦後に建てた家は店の奥がおおむね六畳一間ぐらいしかなかったので、お金が貯まると増築したくなるんです。ですが、隣や後ろはもう家が建っていたので、上へ増築するしかありません

2階や3階を作るということですか?

そうです。御神楽といって、平家の上に柱をたてて2階を増築するのです。そのやり方が昭和30年中頃に流行ったんですよ。増築する際に看板が邪魔だったので、次から次へとなくなっていきました。

それでライオン看板が街から消えていくんですね

火事になって家は全焼。看板だけが残った

実は昭和46年に、よそからの貰い火で火事になったんです。それで家は焼けて、ライオン看板だけ残ったんですね

先ほど火事になったとおっしゃってましたが、家は燃えてしまったんですね

その時、元気な区会議員の方が一升瓶をもってお見舞いに来てくださったんです。街頭演説で鍛えた声で「ライオン看板残ってよかったな!」って(笑)。冗談じゃないよ、看板で飯が食えるかよって内心思いましたけどね

確かに火事は不運ですけど、看板だけ残ったのは奇跡的…!

町の人からは、火事で丸焼けしてかわいそうねという声よりも「お父さんの形見のライオン看板が残ってよかったね」という声の方が圧倒的に多かったんです。

街の人からも愛されていたんですね

火事での立て直しと共に増築もしました。看板を取り払ってコンクリートで建てることも考えましたが、父親の苦労も知っていますし、父親と同世代の人たちからライオン看板は愛されていたので、そのまま残すことにしました。店の奥だけ壊して上に大看板を立てているので、この店は少し変な作りになっているんです

こちらは昭和46年、増築した当初の写真
こちらが現在。一番上の「きもの ひらさわ」の文字で書かれているのが大看板

確かに特徴的ですよね。そこまでしてライオン看板を守ったのはすごいと思います

このライオン看板は、私より年上の方たちにとっては戦後復興の証しであり、町のランドマークだったと思います。何度も修復工事をして守ってきました

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まさかの8割引セール中らしい

さっき入り口で見たんですけど、8割引セール中って本当ですか?

ええ、そうなんです!88歳の誕生日を記念して、思いを込めて精一杯の8割引セールを始めました

8割引ってかなり値引いてますよね!大丈夫なんですか?

ひとつひとつ丹念に仕入れた着物を思い出と共に皆様にお分けしたいという気持ちです。4月の上旬に行いますので、ご興味がある方は是非お品物を見にきていただきたいと思います

美しい振袖たちに見惚れる
帯がこんなに揃っているのはなかなかないらしい。どれも美しい!
七五三の三歳御祝着セットが8000円ぐらいで買えるそうだ

着物のことだったら何だって答えられる自信があります。よろしければ是非お店へお足をお運びください!

ひらさわ呉服店
東京都足立区関原3丁目4−5
03-3886-1827
営業日:金・土・日・月
営業時間:10:00 ~ 16:00
8割引セール期間:4月上旬
HP:http://kimono-hirasawa.jp/
Twitter:@hirasawa_kimono
Instagram:@hirasawakimono

ライオン看板よ、永遠に!

ライオン看板は、戦争を生き抜いた人たちにとっての希望だと感じた。看板の維持は大変だと思うが、どうかこれからも変わらずにありつづけてほしい…

そして平澤さんのトーク力が凄かった。2時間くらい録音していた気がするが一息も休憩することなく喋り続けていた。私も見習いたい。

お手伝いさんも交えて集合写真。年齢差があるため、意図せず家族写真っぽくなってしまいました

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