高梨沙羅の悲劇と管理者の無責任 – 大関暁夫

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北京五輪で物議をかもした「スキージャンプ女子高梨沙羅選手失格」の一件。同選手は北京五輪スキージャンプ混合団体戦でスキーウエアのサイズ規定違反で失格処分を受けるという、本人はもとより誰もが予想だにしなかった悲劇に見舞われ、失意のどん底に陥れられてしまったのでした。

彼女が落胆する姿や、膝を抱えて泣いている姿などもテレビでは映し出され、多くの国民がなぜこんなことになったのか、と怒りをもってこの一件に反応しました。彼女は五輪後に開催された最初のワールドカップを欠場し、失格処分による精神ダメージが尾を引いたものと思われ、胸が痛みました。

試合後のヘッドコーチの対応に胸が痛むワケ

その後彼女は無事、競技大会に復帰しワールドカップで優勝するなど復調をうかがわせる状況に至って、この問題は人々の記憶から消え去っていく運命にあるように思われます。

共同通信社

しかし個人的には、彼女の落胆する姿を思い出すにつけ、スッキリしない後味の悪さばかりが残ってしまったと感じています。その後味の悪さの根源は、彼女をどん底にまで追い込んでしまった、スキージャンプ女子監督・コーチ陣の管理者としての対応にあります。

失格の一件を振り返ると、その理由が予想外の抜き打ち検査であったこと、検査方法が通常とは若干異なっていたこと、などが報道では盛んに取り上げられ、主催者側に対するアンフェアではないかという非難や中国政府の陰謀説までが飛び出すような状況に至っていました。

失格選手は高梨選手を含め全5名。国によっては、かなり強硬に処分に対する抗議姿勢をあらわにするような動きもありましたが、日本チームは連盟に検査方法に対するルール変更などの要望を提出するにとどめ、抗議といった強硬な姿勢は控える方針で対応をしたと聞いています。

ファンの間では、日本チームももっと強硬に抗議すべきとの声も多々聞こえていたのですが、穏便な対応に終始したのは「失格」そのものが覆しにくい事実であると、認めたからであると思います。

正論で申し上げれば、抜き打ちであろうと明確な検査方法が定められていないならどのような検査方法であってもルール違反はルール違反であり、それは覆しにくい事実として受け止めざるを得ない、ということになります。日本チームはその点を認識し、必要以上に声を荒らげても意味がないという、平和主義ともいえる至って日本人的な対応をとったとも言えます。

私が問題視したいのはその平和主義的な対応ではなく、責任を負うべきヘッドコーチのマスコミ対応でした。その象徴的行為は、試合後メディアのインタビューに応じた女子ジャンプチームの横川朝治ヘッドコーチの言動にみてとれました。

「選手は用意されたスーツを着てそのまま飛ぶので。スタッフのチェックミスです」と選手本人のミスではないとはしたものの、自らの管理責任を認識しているとの意思表示である失格に対する謝罪の言葉は一切なかったのです。

管理者が自身の管理下で起きたミスに起因する社会的な不祥事を公表する際に、「当事者のミスではなく、準備スタッフのミスです」と原因報告で終わらせていいはずはありません。

一般の企業であれば、原因究明、責任者謝罪、再発防止策の公表は当たり前のことであり、それがないがゆえに高梨選手はしょい込まなくてもいいレベルの重たい責任までも負ってしまったのだと思うにつけ、胸が痛むのです。

組織として管理者が再発防止に向けて謝罪するのが筋だった

競技の2日後に高梨選手は自身のSNSで、真っ黒な画面とともに深刻すぎる謝罪文を掲載しています。一部では衝動的な行動にかられないか心配する声が上がったほどで、精神的に追い込まれた自身の内面状況を吐露したものと思われました。

Getty Images

一選手をここまで追い込んではいけません。故意のミスでない限り、組織として管理者が管理責任を認めそれを一手に引き受け再発防止に向けて謝罪するのが、管理者に求められる役割であるはずです。しかし、この高梨選手のSNS上での悲痛な謝罪コメントを受けても、なお当該の管理者たちは音無しの構えを貫きました。

こんな無責任な管理者の下で競技をする選手は、あまりにかわいそうです。スタッフのミスは管理者の管理責任に他ならないのですから。

高梨選手の落ち込みぶりにも無反応を貫いた管理者の無責任対応は、有能な選手の選手生命を奪いかねないような愚行であったと、協会および監督、コーチは自身の意識や振る舞いをもっと深刻に考えるべきと今更ながらに思うのです。

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