「そごう西武売却」百貨店終焉か – 大関暁夫

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買収当時は自信に満ち溢れた経営計画

セブン&アイ・ホールディングス(以下セブン&アイ)が、傘下の百貨店事業会社そごう・西武を売却する方向で最終調整に入っているとの報道が、世間をにぎわせています。

セブン&アイは2006年に、2000年に倒産したそごうと債権放棄を受けて経緯再建中の西武百貨店(以下西武)が統合されたミレニアムリテイリングを買収。百貨店の顧客層を新たに取り込んで、顧客基盤拡大を狙った買収でした。

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当時の会長で「小売りの神様」と呼ばれたカリスマ経営者鈴木敏文氏が、「流通の各業態を複合的に結びつけ、グループとしてのシナジーを生ませる」と胸を張った自信に満ちた戦略であったと記憶しています。

そごう西武の各前身企業にもカリスマと言われた人物が存在し、両社共過去に彼らの主導による一大発展を経験しています。そごうのカリスマは、バンカーから転じて発展の礎をつくった水島廣雄氏です。水島氏は日本興業銀行にいた1958年に、妻の実家筋がそごうのオーナー家とつながっていた縁で、野心をもってそごうに転じ副社長になります。

当時そごうは関西地盤の弱小百貨店でしたが、氏は業績の足を引っ張っていた有楽町そごうの高い家賃を、大家で論客の読売新聞正力松太郎氏を説き伏せて半額にまけさせ業績回復を実現しました。これを機に氏は社長に就任し、水島そごうの快進撃が始まるのです。

景気の浮き沈みに左右されやすい百貨店の業績

水島氏は社長就任当時全国3店舗だったそごうの新戦略として、首都圏では一等地が取れない都心部を避けてその周辺を攻めるという、東京を中心に弧を描く店舗網づくりを「レインボー作戦」と名付け、氏の強みである銀行との関係を駆使しつつ次々と新規出店を重ねていきます。

その第一弾が千葉そごうであり、1986年には当時東洋一の売場面積を誇ったグループ随一の巨艦店横浜そごうを開店させました。当時水島氏は「レインボー作戦で3年以内に売上世界一の百貨店チェーンをつくる」と豪語し、実際1991年にこれを実現します。

しかしこの直後、バブル経済が崩壊して共に急激な下降線をたどることになるのです。

百貨店は、江戸時代の名門呉服商をその起源として長年蓄積された富裕層のお得意様数で勝る高島屋、三越、伊勢丹、大丸、松坂屋などの呉服屋系百貨店と、後発で富裕層の地盤を持たない大衆向け量販型の電鉄系百貨店に区分けされます。

そごうは呉服屋系とはいえ中小呉服屋起源であり富裕層取引に弱いことから、電鉄系と同じ大衆路線を歩まざるを得ませんでした。

従って業績は景気の浮き沈みに左右されやすく、バブル崩壊後の長期低成長デフレ経済のあおりをもろに受けることになり、拡大路線のツケである多額の借金に押しつぶされる形で2000年に経営破綻の憂き目に会うのです。

そごう西武はカリスマに導かれた「超負け組」同士

一方、電鉄系百貨店西武のカリスマは、西武鉄道創業者堤康次郎の次男堤清二氏です。氏は電鉄から独立して流通を扱うセゾングループを設立。文筆家でもあった氏の「感性経営」で、渋谷西武やパルコ、ロフトが若者文化をリードするブランド化に成功し一世を風靡します。

共同通信社

しかし、バブル崩壊と共に若者の購買意欲減退が急激に進行。イメージでは物が売れない時代となり、こちらもバブル期の多額の投資を支えた借金に押しつぶされる形で、グループは2001年に崩壊。

中核の西武百貨店は2003年2200億円の債権放棄による私的整理を経て再起を期してそごうと統合し、その後セブン&アイ傘下入りしたのです。

このようにそごうも西武も、確固たる顧客基盤なくカリスマに導かれ巨大化した大衆向け量販型百貨店です。従い同じようにバブル崩壊後に大苦境を迎える運命にあったわけで、つまりそごう西武は、カリスマに導かれた「超負け組」同士の組み合わせなのです。

その意味では、統合時から厳しい先行きとなるのは目に見えていたとも言えます。これらの事情を承知の上で、その「超負け組」にあえて大枚はたいて手に入れたもう一人のカリスマ鈴木敏文氏は、量販型百貨店再生に秘策をもっていたのではないかと思うのです。

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