いじめ問題「大人に原因」の恐れ – 御田寺圭

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共同通信社

盛り上がる「いじめ厳罰化」の議論

学校内で起こる心身への暴力的加害行為——いわゆる「いじめ」について、「旭川14歳女子凍死」がひとつのきっかけとなり、世間的に問題意識が高まっている。

この事件では、北海道旭川市の少女が受けていた苛烈ないじめの内容が明らかにされつつある一方で、学校側や加害者側が事実関係をはっきりと答えないもしくは否定するなどしたことで、世間から大きな非難を集めることになった。旭川市長がこの問題に対して直接の解決を目指すことを言明するなど、「ひとつの学校で起こった小さな事件」の域を超えた社会問題に発展している。

また、時を同じくして、フランスでは学校内で発生したいじめに対する厳罰化の動きが加速している。

ここ数年はインターネットを通じたいじめが増加している。政府は来年2月、いじめ被害者のスマートフォンに届いた嫌がらせメッセージの画面内容を保存した「スクリーンショット」などを送信できる通報アプリの運用を開始予定。子供のパソコンやスマホなどを親が管理できるようにする措置も検討している。

教育省の発表によると、フランスでは全児童・生徒の6%に当たる年間約70万人がいじめの被害に遭っている。報告されていないケースも多く、今回の法案によると、実際の被害者は80万~100万人に上るとみられている。

時事ドットコム『学校でのいじめ厳罰化へ 自殺なら禁錮10年―仏』(2021年12月29日)より引用 https://www.jiji.com/jc/article?k=2021122900170

フランスのこうした動きが伝えられると、ネットでは大きな共感と称賛が集まっていた。日本でも行われた加害については「いじめ」などと曖昧な名称を使わず、犯罪行為として捕捉し、相応の罰を与えていくべきである――と。

たしかに、「いじめ」の名目であろうが、他人を殴れば暴行や傷害だし、金品を巻き上げれば恐喝や窃盗になる。行われた「いじめ」の行為について評価し、そのうち刑事的問題として処理できる行為については、適切かつ迅速に処断していく流れを政治・行政の側からつくっていくことは「いじめ」の対策として一定の効果を発揮するとも思われる。

「いじめ」と見なされないいじめ

写真AC

しかしながら「いじめ」そのものを根絶する目的として考えればどうだろうか。必ずしも根絶には寄与しないかもしれない。あるいは、ますます「いじめ」の問題は巧妙化・深化していく可能性すらある。「いじめ」とは、必ずしも直接的な暴力や財産の収奪が及ぶ行為だけがそれに該当するわけではなく、むしろもっと広範な営為を含んでいるからだ。

「アイツがイヤな奴だったから、無視して敬遠した」というパターンはよく見聞きする。クラスのみんなで無視したり敬遠したりするのは、典型的ないじめの一類型である。これを暴力や侮辱といった刑事的問題として捕捉することは極めて困難だ。外形的にはなにも実力行使していないからである。殴る蹴るといった積極的な加害とは違い、「かかわらない」という消極的な加害行為のどこまでを明確に「いじめ」として線引きするかは、ひじょうに難しい議論を呼ぶ。

また「いじめ」行為の定義を明確化し厳罰化すれば、「これはいじめではない」と正当化するロジックがより巧妙に発展していく。「自分はそもそも被害者なのだから、受けた被害を自力救済しようとしているだけ」と、自身がまず「絶対の被害者」であることを周囲に誇示し、自身の行為やポジションの正当性を固めてから「攻撃」に転じるような文脈が強調されていくことにもなるだろう。

「無視」「疎外」によってとくになにか物理的な危害を加えたわけではないし、もちろん暴言や暴力もない。いじめを受けた側が精神的な苦痛を受けたと訴えたところで「でも元をたどれば〇〇さんに原因があって、私は個人的に敬遠していただけ。たまたま全員が私と同じようにそうしただけで、いじめの加害者扱いされるのはおかしい」といった弁解を受けてしまえば、これまた反論が難しくなる。

厄介なことに、いじめ加害者側がしばしば主張する「いじめられる側にも原因がある」は、しばしば真である。例を挙げれば、コミュニケーションが人と比べて下手だったりすることがいじめのきっかけになることがある。その意味において「いじめられる側にも原因がある」はたしかに間違いではない(誤解のないよう強調しておくが、原因があるからといっていじめという行為が正当化されるわけではない)。

多くの人がしばしば誤解しているが「いじめ」の加害者は、必ずしも明確な悪意や害意をもっているとはかぎらない。「私(たち)は、アイツによって被害を受けた」という被害者意識によって喚起された「正義」が私的制裁を正当化する。その結果としていじめが生じる場合も少なくない。

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喋り方が不気味だったとか、見た目が気持ち悪かったとか、近くに居られると不愉快だったとか、態度がなにやら偉そうだったとか、えてして下らない不快感情ではあるのだが、しかしながら「私はアイツによって不快にさせられた」という被害意識をもとに「いじめ」はある集団内において正当化される。

「いじめ」がある種の被害者意識や正義感によって正当化される過程は、同時にいじめられる者の「加害者性」を強調するロジックを促進する。自分たちのやっている行為を「いじめ」ではないと相互に確認しながら、なおかつ第三者にアピールするためだ。

いまどきのいじめっ子は、だれがどう見てもいじめっ子然としていることはない。むしろ悲しそうな顔をしながらこう述べる。「私たちはいじめたのではなく、本当は私たちが被害を受けていたから、自力救済しただけ」「私たちはいじめたのではなく、相手が不快な言動をとったから、私たちはやむをえず距離を置いただけ」——と。

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