空襲「やりたい放題」だった米国 – BLOGOS編集部

BLOGOS

撮影:弘田充

田原総一朗と毒蝮三太夫、政治に世相に常に目を光らせBLOGOSで定期的に発言を続けるふたり。田原が87歳で毒蝮が85歳、まさにBLOGOSが誇る長老同士。お互いに少年時代に戦争体験を持ち、戦後日本を昭和・平成・令和とメディアに身を置き歩んできた。今もって現役で活動を続ける両人がBLOGOSレギュラー同士という縁により、初のロング対談が実現。長老同士が老いを超えて語り合う”超老”対談です。

全5回のロング対談、日本人、戦争、核問題、政治、若者と多岐にわたった第2回は…。

死体があちこちに…城南大空襲から生き延びた経験

東京山の手にも空襲 焼け野原、行き交う人々(1945年5月30日)/共同通信社

田原 毒蝮さんは空襲に遭ってる。

毒蝮 昭和20年3月10日の東京大空襲は、江東区、墨田区、台東区が燃えたんです。俺はそれを桐ケ谷の高台から見てた。向こうのほうが真っ赤になって、うわあ下町は大変なことになってるな・・・って。俺はそのあと5月24日の真夜中にあった城南の空襲で焼け出されたんです。これは大変な空襲でしたよ。田原さんは空襲の思い出がない?

田原 うちは彦根だったから空襲がなかった。空襲はないけど爆弾は落ちました。当時、名古屋を空襲した爆撃機が帰る時に爆弾が余ってると、そのまま持って帰ってもしょうがないから面白半分に彦根に落としていった。狙われたのが近江鉄道。交通機関はいい標的だから、近江鉄道に爆弾が投下された。乗ってた人が随分と亡くなりました。

毒蝮 そうか、たまたま鉄道に乗ってた人が爆弾を落とされたんだ…。

田原 戦争体験者でも、空襲の経験がある人とない人では思いが全然違いますね。文藝春秋にいた作家の半藤一利さん、空襲を受けて本当に死にそうになったって語ってた。

毒蝮 半藤さんは墨田区ですよ。向島のほうの出身だからいちばん被害がひどかった所だ。3月の東京大空襲は3時間で10万人亡くなってる。あれは亡くなってるっていうんじゃない、殺されてるんですよ。それを半藤さんはずっと言ってましたね。

田原 だから戦争は絶対ダメだと。自国であろうが戦争をやった国なんて敵だと。戦争を煽ったマスコミなんて敵だと。半藤さんは言い続けた。

毒蝮 空襲で言うとうちの親父、明治35年生まれで石井正寅って言うんです。寅年生まれで、今年は寅年だから親父が生まれてちょうど120年。親父は120年前に神奈川県の戸塚で生まれて大工になった。腕は立ったから当時「海軍技術研究所」に雇われたんです。今、中目黒で防衛省の施設がある場所ですよ。そこに雇われてたもんだから、5月24日の空襲の時に、辺りが燃えてきたらうちの親父は「俺は技研に行って見てくるから」って、おふくろと俺に「おまえたち、ひどくなったら逃げろ」って行っちゃった。

田原 おふくろさんと取り残されたんだ。

毒蝮 逃げろって言ってもね、当時は空襲受けて燃えてるのから逃げると捕まったんですよ。国賊だって言われたんです。ハタキやバケツリレーで火を消すのが義務だった。おふくろはやってましたよ近所の人たちと。でもね、いくら消そうとしたってどんどん燃えてきて間に合わない。前のほうがどんどん焼けただれてきて、もうダメだ、もう逃げようっておふくろと逃げたんですよ。で、桐ケ谷の高台に逃げて助かった。

この城南の空襲はB29が500機ぐらい飛んで来て、3月の東京大空襲よりも規模は大きかったんです。だけど城南地区は木造住宅がわりと少なかったのと、人口が少なかったから死んだ人数は約4千人だった。3月の大空襲は10万人、それがいかに多かったか。

田原 死体もいっぱい見たんでしょう?

毒蝮 はい、見ましたね。でも半藤さんのほうはもっと凄かったでしょうね。焼夷弾であちこち燃えるとすさまじい熱風が起きるんです。それがすごいんですよ。だから熱くて隅田川とかに荷物背負ったまま飛び込んだりしてる。

田原 半藤さんも川に飛び込んだって。そこで大勢死んだけど、彼は助かった。

毒蝮 半藤さんも生き地獄を見てるわけですね。

田原 僕は彼とわりと親しかった。だから言われましたよ、「君は本当は戦争を知らない」って。

毒蝮 でも、田原さんも戦争があと2年も延びてたら徴兵されてましたよね。

田原 終戦の年に11歳、小学校5年だった。1学期は軍事教練が始まってました。

毒蝮 天突き体操とか。

田原 竹やり持ってね。

毒蝮 わら人形を突いたり。

田原 小学5年で本格的に社会科の授業が始まって、そこで先生たちが、この戦争は悪魔のようなアメリカ、イギリスを打ち破るんだと。アメリカやヨーロッパの国々に奴隷同然の植民地にされているアジアの国々を独立させ、解放させるための正義の戦争なんだと教えた。

毒蝮 聖戦だと。

田原 だから君たちはみんな早く大人になって戦争に参加して、天皇陛下のために名誉の戦死をしろと。そう教えられて信じたんですよ。当時、僕らの将来は2つしかなかった。陸軍に入るか海軍に入るか。

毒蝮 選択肢が2つとも兵隊なの?

田原 それ以外ない。僕は当時、陸軍は行軍があって延々と歩かなきゃならない。海軍は甲板の上、たいして歩かなくていい。だから海軍に行こうと思ってた。

毒蝮 アハハハハ。

田原 僕のいとこが海軍兵学校に入ってて、海軍のほうが軍服がカッコイイんですよ。

毒蝮 錨のマークが入ってね。

田原 だから僕は海軍兵学校に入りたい、それが当時の夢だった。

毒蝮 俺は終戦の年に9歳だったけど、兵隊さんになりたいってのはありました。あと、電車の運転士になりたいって思ってましたね。

アニキは知覧で特攻隊に

写真AC

毒蝮 うちはアニキふたりが兵隊に行ってるんですよ。いちばん上のアニキは通信兵で中支に行ったんです、中国ですね。だから日中戦争の時代からアニキが兵隊に行ってるのを間近で見てました。兵営に会いに行ったら、こっちから持ってった餅菓子なんかをアニキが美味しそうに食べてくれてね。

2番目のアニキは郵便兵になりたかったんです。郵便を飛行機で運ぶ。それで仙台の郵便飛行学校に行ったんですよ。それから戦争が悪化していく中で、学校が軍隊にすり替わったんですね。それで特攻隊です。仙台から中国に移っちゃった。やがて戦争が末期になって沖縄に突っ込むぞっていうんで鹿児島の知覧に移った。

田原 知覧は特攻隊の基地で有名だ。

毒蝮 もしあと1ヶ月ぐらい戦争が長引いてたら、アニキも特攻で行ってました。話を聞いたら特攻の訓練を毎日のようにやってて、150キロの爆弾を飛行機に積んで練習するんだけど、その時の飛行機が劣化しててガソリンも質が悪いからよく飛ばないんですって。重い爆弾積んでバタバタで、とても目的地まで行けないって…。

Source

タイトルとURLをコピーしました