特攻隊の為?アンパンマン曲に噂 – 物江 潤

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「『アンパンマンのマーチ』は特攻隊員に向けて作られた!」

などという見出しの記事や動画がネット上に多数存在することをご存じだろうか。ブログ・YouTube・ツイッターのみならず、驚くことにTikTokにさえ拡散しているのだ。

仕事のため、作者のやなせたかし先生の著作やアンパンマンの映画・アニメを可能な限り収集し目を通すうち、すっかりやなせ先生のファンになってしまった私としては、こんなタイトルの記事や動画を目にするとがっかりしてしまう。なぜなら、これらは限りなくデマに近いものだからだ。

BLOGOS編集部

テレビで言っていた?『アンパンマンのマーチ』にまつわる俗説

ただ、このような不可思議な話が流通してしまう理由もある。

まず、やなせ先生の弟が特攻隊員であり、戦争で命を落としている点が大きい。各著作で何度も弟の死について言及していることから、やなせ先生に多大な影響を与えたことは想像に難くない。

実際、弟の死を念頭に置きつつ歌詞を読んでみると、たしかに特攻隊員への歌に思えなくもない。特攻隊説を主張する動画には、感情を揺さぶられた視聴者たちが多くのコメントを残していて、「感動しました」「学校の授業で習いました」「やなせ先生がそう言っているのをテレビで見た」などというものも目に付く。が、授業で習う可能性は否定できないものの、テレビでやなせ先生本人が話すはずはない。

ぼくはそんなつもりはなかったのですが、「アンパンマンのマーチ」が弟に捧げられたものと指摘する人もいます。それだけ、弟と最後の言葉を交わした記憶が深く残っていたのでしょう。
(やなせたかし著『ぼくは戦争は大きらい』小学館、2013年)

と言うことで、「テレビでやなせ先生が言っていた」は完全なデマと言ってよい。人間の記憶は相当いい加減だということを思い知らされる。「やなせ先生が特攻隊のために作った」といった説も同様にデマだと見なしてよいだろう。

「弟と最後の言葉を交わした記憶」について補足する。これはおそらく、弟が特攻隊員となった後、二人が交わした会話のことだろう。

「特別任務を志願する者は一歩前に」と上官に言われ歩を前に進めた弟に対し、やなせ先生はどうして志願してしまったのかと迫る。「みんなが出るのに出ないわけにはいかない」という弟の返答に先生は納得しなかったが、「行かずにはおれなかったのでしょうね」とも述べている。自身の軍隊経験もあり、やなせ先生はことあるごとに戦争を否定している点に留意したい。

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「特攻隊の歌」という証拠はないが、完全なデマとも言い切れない厄介さ

先の引用文から厄介なことも判明する。やなせ先生が意図的に特攻隊員の歌を作ったという話は完全なデマだが、無意識に作ったという説までは否定できないのだ(そもそも、無意識に……の類の主張を否定すること自体、相当困難だが)。私自身、弟の死がやなせ先生に大きな影響を与えたことは同意するし、何らかの影響を歌詞に与えている可能性はあると思う。

実際、弟の死や戦争体験を抜きにして、やなせ先生の創作活動は語れないとさえ考える。戦中/戦後で軍隊が正義の英雄から悪者に変わり何が正しいのか分からなくなったが、飢えた人に食べ物をあげるのはいつだって正しいという実体験がアンパンマンに投影されているのは有名な話だ。

一方、だから『アンパンマンのマーチ』は特攻隊の歌だとする強弁には全く同意できない。

様々な資料を読み正体に近づこうとすればするほど、見えてくる姿は往々にして平々凡々になっていく。現実がそうであるように、エモーショナルなストーリーなんてそうそう存在しない。そんな話を作りたいならば、むしろ断片的な情報だけを把握するにとどめ、あまり深入りしない方がよい。わずかばかりの情報だからこそ、それらを上手につなぎ合わせたストーリーはシンプルになる。そんな話が人々の感情を揺さぶるものであれば、その単純さも相まって、あっという間に広がっていくだろう。

このことは、『アンパンマンのマーチ』でも同じだ。この曲に関する情報を洗い出せば、実に様々なものが見て取れ、同曲を巡るストーリーはどんどん複雑且つ平凡になっていく。

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歌詞の「なんのために生まれて なにをして生きるのか」という部分については、ぼくの人生のテーマソングだとやなせ先生は話すし、映画『それいけ!アンパンマン いのちの星のドーリィ』という同曲をテーマにした名作もある。『アンパンマンのマーチ』がやなせ先生にとって大切な歌であることは間違いない。

しかし、送られてきたメロディーを聞いて簡単に歌詞を作ったなんて旨の発言があるように、書籍を読み漁れば漁るほど、ネット上で見られるようなエモーショナルなものからは遠ざかっていく。また、「愛と勇気だけが友達さ」という歌詞が特攻隊員と結び付けられて語られることもあるが、この俗説は特に怪しい。

「アンパンマンは愛と勇気だけで他に友だちはいないんですか?」と質問されることがある。友だちも仲間も大勢いる。友情で結ばれている。しかし命がけで自分を犠牲にしても戦う時は自分一人、他人の協力をあてにしないということだ。
 ぼくは大変小心で臆病なところがあり、いつも怯えがちだが、ここぞという時は自分一人、他人をあてにすることはない。
 あてにして外れた時は恨むことになる。自分一人のほうが気楽だ。失敗したときは他人に迷惑をかけないのがいい。それがあの歌にあったのだ。まことに立派な心がけのようだが、実像は小心だからお笑いである。
(やなせたかし著『天命つきるその日まで』アスキー新書、2012年)

これもまた、強引に特攻隊と結び付けられるのかもしれない。が、むしろそんな大きな話ではなく、やなせ先生の性格が反映されていると見なすのが素直な読み方だろう。

さらに加えると、やなせ先生の正義に対する考え方も、特攻隊説への違和感を大きくする。アンパンマンワールドは不老不死だという設定がある一方、やなせ先生は『わたしが正義について語るなら』(ポプラ新書)等にて、アンパンマンはばいきんまんを殺そうと思えば殺せるし、それはばいきんまんも同様だといった旨を語っている。やなせ先生が持つ、絶対的な正義や悪などないという考えが反映されているのだが、このような世界観と特攻隊はどうすれば結び付くのだろうか。

こうして、「無意識に特攻隊の歌を書いたという説は疑わしいものの、完全に否定するのは難しい」という、何とも煮え切らず、面白くも何ともない平凡な結論が手元に残る。紙幅の関係で難しいが、さらに検討を続けていっても、その判然としない結果は変わらない。それどころか、さらに状況は複雑になっていく。そんな面白味もない話を披露してみたところで、決して流行することはないだろう。粗雑に情報を取り扱い、時には無理筋の強弁までして作られるストーリーの方が力を持ち、慎重に取り扱った側が全く影響力を持たないという皮肉な構図が見えてくる。

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『アンパンマンのマーチ』に関する説は、ポスト・トゥルースの典型

『アンパンマンのマーチ』がそうであったように、デマのなかには断片的な事実が含まれることが多く、それがあたかも客観性を与えているかのような錯覚をもたらす。そして断片をつなぎ合わせ、感情に強く訴えかけるようなストーリーを作れば説得力が生まれる。

事実も含まれるだけに、相手が納得する完ぺきな反論は容易ではない。また、しばしばそのデマを事実と認めた人たちが熱心に拡散するのに比べ、丁寧に論ずるが故に結論が判然としない主張を少数派がしたとしてもそれほど拡散はしないだろう。影響力は雲泥の差だ。

実際、ネット上で特攻隊説を論理的に否定するユーザーも見られるが、やはり彼らの反論はほぼ一顧だにされず、いい加減な応対で流されてしまう。かといって、相手に対抗するため論を粗雑にしていけば、デマを流す人たちと五十歩百歩になりかねない。論理によって特攻隊説を信じるのではなく、もはや信仰心が説を支えているため、これを取り崩すのは極めて難しい。

だから、どうすべきかと問われても胸のすくような解決策なんて存在しない。そもそも、そんなものを模索すれば、自分自身がデマを妄信する一歩になりかねない。せいぜい私たちにできるのは、感情を揺さぶられるシンプルなデマを信じやすい、ポスト・トゥルースの時代に生きているのだという認識を広げることくらいだろう。あえて言えば、こんな閉塞感を打ち破るような解を安易に求めない忍耐強さと冷静さが、ポスト・トゥルースの時代に求められているのだと思われる。

参考文献
やなせたかし・鈴木一義編著『アンパンマン大研究』フレーベル館、1998年
やなせたかし著『天命つきるその日まで』アスキー新書、2012年
やなせたかし著『オイドル絵っせい 人生、90歳からおもしろい!』新潮社、2012年
やなせたかし著『わたしが正義について語るなら』ポプラ新書、2013年

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