軍歌を歌い戦争伝えた噺家の一生 – 松田健次

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高座で軍歌を歌い続けた名物落語家、川柳川柳(かわやなぎ・せんりゅう)師匠が亡くなられた。2021年11月17日没、90歳だった。十八番ネタは「ガーコン」。明治・大正・昭和の唱歌や流行歌から、満州事変、日中戦争、太平洋戦争の時代に歌われた軍歌、そして戦後席巻したジャズまで、近代ニッポンを音楽の変遷で辿りながら、自らの「戦争体験」を語りつづるオリジナルにしてオンリーワンの演目だった。

通常、寄席に出る落語家であれば、他の演者の演目と内容がかぶらないよう(重複しないよう)、その日その日の流れで演目を変えるのが常だ。だが、川柳師匠は寄席に上がればほぼ「ガーコン」。たまに別の新作漫談的演目(「昭和テレビグラフィティ」「パフィーde甲子園」)もあるにはあったが、ほとんど「ガーコン」一本で通していた。

それが可能だったのは「ガーコン」が他のどんな演目ともかぶらないからだった。それはそうだろう、何しろ軍歌を歌いまくるネタなのだから。(ちなみに「ガーコン」とは、サゲで登場する脱穀機の擬音を指している。)

寄席で一年じゅう高座にかかっていた「ガーコン」。不思議なことに何度聞いても飽きないネタだった。それはなぜなのか・・・。

ウケるウケないを超越した特殊な存在感

撮影:染谷高司

川柳師匠は埼玉県秩父で昭和6年(1931年)満州事変の年に生まれ、昭和20年(1945年)戦争終結を多感だった14歳で迎える。まさに日本の戦争史と共に成長した軍国少年だった。その戦争体験から語られるエピソードの説得力、豊かな声量で朗々と歌い上げる歌唱力、しかも軍歌。誰とも比べようのない特殊な存在感だった。ウケるウケない、飽きる飽きないを、超越していたのだろう。

川柳師匠は「ガーコン」を40歳頃から演り始めたという。遡れば1970年あたりからだ。昭和がまだ色濃かった70年代は、高座で軍歌を歌うと客席で口ずさむ、軍歌で育ったご年輩世代がかなり多くいて、その合唱感で盛り上がったという。

そういう観客も時代と共に一人減り二人減り、やがて客席は戦争を知らない世代へとごっそり入れ替わっていく。自分もそこに含まれ、川柳師匠の「ガーコン」を通じて、教科書や戦争映画やNHKの番組とは別ルートで、太平洋戦争の側面を伺いながら軍歌を何曲も何曲も刷り込まれた。

いったいどんな軍歌が歌われていたか、主なラインナップを挙げてみると・・・

♪大東亜決戦の唄 (起つやたちまち撃滅のかちどき挙がる太平洋~)
♪英国東洋艦隊潰滅 (滅びたり滅びたり敵東洋艦隊の~)
♪空の神兵 (藍より蒼き大空に大空に~)
♪加藤隼戦闘隊 (エンジンの音轟々と隼は征く雲の果て~)
♪ラバウル海軍航空隊 (銀翼連ねて南の前線~)
♪月月火水木金金 (朝だ夜明けだ潮の息吹き~)
♪同期の桜 (貴様と俺とは同期の桜~)
♪若鷲の歌 (若い血潮の予科練の~)

時間に余裕があると、ここにさらに加えて、

♪紀元二千六百年 (金鵄輝く日本の栄ある光身にうけて いまこそ祝えこの朝 
紀元は二千六百年 あゝ一億の~)
♪轟沈 (可愛い魚雷と一緒に積んだ青いバナナも黄色く熟れた~)
♪学徒出陣の歌
♪比島決戦の歌 (出てこいニミッツ・マッカーサー~ ※歌詞は川柳川柳歌唱に拠る)
♪ルーズベルトのベルトが切れて~ ※替え歌

ほか、藤山一郎、灰田勝彦、古関裕而など、人物ごとの歌と音楽がオプションとしてどんどん加わっていく。そのラインナップにはこれという決まりはなく、時間に合わせてレパートリーの抽斗を気の向くままに出し入れしていたと言える。

敗戦が続いてマイナー音階になっていった軍歌

そこで必ず語られたのが、戦局と軍歌の推移だった。太平洋戦争開始の当初は戦勝が続き、歌の曲調も勇壮で明るかったが、半年ほどで形勢が変わり敗戦が続くようになると、曲調も悲愴で暗くなっていった・・・「メジャーがマイナーに、長調が短調に、敗けてきたらみんなマイナー音階」という体験的分析。

これが川柳師匠による「ガーコン」の命題であり、訴えだった。「ガーコン」の別名として「歌は世につれ」という演目名もあるが、まさに「歌は世につれ、世は歌につれ」、軍歌も戦局と背中合わせだった・・・。

軍歌を歌いまくった寄席芸人――、そこだけを切り取れば、愛国主義の右翼かと思われるかもしれないが、そうではなかった。日本はなぜ戦争に突入したのか、新聞は国民に何を伝えていたのか、日米の戦闘機はどう違ったのか、学徒出陣とは、特攻とは、等々、自分が生きた歴史をクールな眼差しで振り返り、その上で「芯」を捉えて笑わせることにも軸足を置き続けた。

戦争という悲惨な時代を硬軟両面で捉える複眼の持ち主、それが川柳川柳という芸人だった。

落語ファンが「ガーコン」で聞く戦中エピソードの中で、ギュッとわしづかみにされる話が幾つかあるが、その代表と言うと――、

< 川柳川柳『ガーコン』より >

「歌の方も厳しくなって、アメリカイギリスの音楽は一切演奏禁止ですよ。ジャズなんか一番ひどいめにあってね。演奏しただけで警察に捕まって血だらけになるまでぶん殴られたってね。非国民売国奴!って。人権なんかないんだから。この国の戦争方針に逆らうやつは、もうすべて国賊だってね。そういう恐ろしい時代ですよ。

寄席の演芸だって大変だったって。落語家が一番先に持ってかれたんです兵隊に。講談浪曲はうまく合わせるんだ、時勢にね。笑わせなくていいんだから、軍事浪曲、軍事講談、「♪テンノウヘイカ~ バンザイト~ ギャアア~」なんてやるんですよ。講談なんて釈台引っぱたいちゃって、「軍神広瀬中佐、旅順港閉塞の一席でございます!肉弾三勇士!」、こういうのやるんだから。こりゃ軍部は大喜びだよ。軍部のPRしてるようなもんだから。それを聞いて、ラジオからそういうの聞いて、俺も早く大きくなって悪い敵と戦うんだと思ったのよ。そういう時代ですよ。

もう、落語家って睨まれちゃって、ネタがないの落語家は。戦争に協力するようなネタがない。とにかく落語三原則って、女郎買い、酔っ払い、バクチだもん。飲む打つ買う、三道楽ってやつでね。志ん生師匠なんてその塊みたいなもんで。だからすっかり睨まれちゃって、落語家なんかあいつら一切戦争に協力しない、非国民だあいつら、一番先に引っ張れ、最前線だあいつら、なんて芸能界で一番先に持ってかれたんですよ。

ずいぶん先輩が行ってます。小さん、小勝、小せん、夢楽、柳昇、柳朝、米丸、小南、円右、柳好、さん助、文治、笑三、小円馬、三平とかね。三平さんが兵隊行ったんだもの。いかに当時の日本が追い詰められた状況か・・・。20人ぐらい行ってるんです。で、ひとりも死なないで全部帰ってきたって。復員。見事な非国民。三平さんなんか太って帰ってきたって。何したんでしょうね!」

※(念の為「三平さん」は初代の爆笑王。現在笑点メンバーの三平は二代目です。) 

しかしながら、あの時代に戦争を選んだ日本を苦々しく思っている・・・のであれば、毎日のように人前で軍歌を歌う行為は心情として「あり」なのか? どこか矛盾してないか? と思うかもしれない。そのアンバランスな芸を「あり」にしているのは、どういうワケなのかと。

その答えを求めるなら、ただただ音楽が好きである、歌うことが好きである、とくに人前で歌うことが好きである、歌うことで噴き出す快楽物質を生涯やめられなかった・・・、とするとしっくり来る。少年時代に体の隅々で憶えた軍歌、その背景には戦意高揚や国民統制の役割もあったが、純粋にその音楽が個人にもたらす陶酔があるのだと。

そうして、あの時代を否定しつつも、あの時代の音楽を肯定することで、自身の少年時代を「承認し続けた」・・・。

いずれにしても一生涯でとにかく軍歌を歌いまくった人物だった。半世紀にわたり、ほぼ毎日のごとく高座で軍歌を何曲も歌い続けてきたのだ。その数を正確にカウントしたら、きっとギネスに申請できるだろう。

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