琵琶湖の水位が下がっている今しか見られない遺跡があるらしい

デイリーポータルZ

京都市民たる私の体の6割は琵琶湖の水でできている。なんでもここ最近、そんな琵琶湖の水位が記録的に下がっているらしい。

その影響で普段は水面の下に沈んでいて見えない坂本城の遺構が姿を現しているというではないか。

「琵琶湖の水止めたろか」が現実味を帯びてくる中、散歩がてら見に行ってきました。

水位がここまで下がるのは14年ぶり

琵琶湖の水位が低い状態が続いている。

2021年は秋の台風シーズンにたいして雨が降らず、それ以降も降水量の少ない状態が続いているのが原因だ。

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基準水位マイナス70センチよりちょっと上のあたりでふらふらする現在の水位。

水位がここまで低下するのは平成19年以来のじつに14年ぶりなのだそうである。

そんなわけで最近の関西では滋賀県知事が連日のように節水を呼びかけ、「琵琶湖の水止めたろか!」という脅し文句が冗談ではすまなくなってきている。

たいへんだ。

歴史をさかのぼれば平成6年にもマイナス123センチという、琵琶湖の底の栓が抜けてしまったのではというほどの大渇水があった。当時私はまだ洗面台に手が届かないような子供だったので詳しいことはわからなかったが、親や幼稚園の先生が水を入れられそうな容器を総動員する姿は水資源の大切さを幼な心に知らしめたのだった。

今回はそこまでいかかなければいいのだが。

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琵琶湖疏水が干からびるかもしれないと。

水不足についての成り行きは天に任せるとして、遺跡である。

これはかの明智光秀が琵琶湖畔に築いた坂本城の城址であり、普段は水面下にあって見えない。それが、今は水位低下によって白日のもとにさらされているのだ。

↑ここである。

「十数年に一度だけ湖底から現れる遺跡」というと、ロマンである。「その遺跡が顔を出すと、そのあと渇水になる」というと、なんだか呪いっぽくもある。

光秀のことも戦国時代のことも教科書以上の知識は持っていないけれど、そんな「今しか見られない」という物珍しさに惹かれて行ってみることにした。

坂本城址公園へ

京都市内から比叡山をひとまたぎすればすぐに琵琶湖である。

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坂本城址公園。

コロナ禍がとりあえず一段落した解放感と、いつ大雨が降ってまた水面下に隠れてしまうかもしれないという焦燥感の合わせ技のせいだろうか。坂本城址公園は、たいへんな賑わいだった。

駐車場の前には入りきれない車の列ができており、併設されたトイレは「この日のために生まれてきました」と言わんばかりにフル稼働していた。

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そんな人々を見下ろす明智光秀像。
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優しそうな顔をしている。体形もなんだかずんぐりむっくりだ。
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光秀をイメージして作詞された歌の碑があった。

「光秀」と書いて「おとこ」と読ませる。ぎりぎりのところを攻めてきたなという印象。美濃の国で生まれて小栗栖で討ち死にするまでを歌い上げているのだが、感情移入し過ぎた作詞者が若干暴走しているようではらはらする。

石碑の横に設置されたボタンを押すと実際に歌を聞くことができる。力作なので現地に行く人はぜひ聞いてみてほしい。

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このボタンを押すと、
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石碑の後ろに設置されたスピーカーから歌が流れる。

ボタンを押すと、チャララ~♪という演歌調の演奏とともに冒頭の語りのパートが始まる。

映画『男はつらいよ』主題歌の「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です」で始まる歌い出しの部分をイメージしてもらえばいいと思う。

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「これが光秀の本音にござります」と大胆に言い切ってしまうところから始まる歌詞。全体的に浪花節調である。
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光秀が討ち死にするところに至って、作詞者の感情の高ぶりはピークに達する。「桔梗」と書いて「な(名)」と読ませる。これは、読めない。
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帰宅してから調べたところ、桔梗は明智の家紋だから……ということらしい(画像の出典:フリー素材サイト『発光大王堂』http://hakko-daiodo.com/kamon-c/cate3/kikyou/kikyou-8.html

 

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肝心の城址は坂本城址公園内にはない

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湖畔に出る。

水が多いときは葦が生えたあたりが波打ち際なのだが、やはり水位低下の影響で水際が前進している。

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ばさばさっと音を立ててカルガモの夫婦が飛び立っていった。冬の琵琶湖は水鳥が多く、彼らをみているだけでも楽しく過ごせるのだ。でも、今日の目的は坂本城址だ。

しばらく砂浜の上を行ったり来たりしていたのだが、それらしいものは見当たらない。周囲を見ると、同じように水たまりを避けて砂浜を行ったり来たりしている人たちが大勢いて連帯感のようなものを感じる。

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坂本城址公園は坂本城の敷地外にあった。

歌碑に気をとられて見落としていたのだが、看板をよく見ると目的の遺跡は公園の敷地を出てしばらく歩いたところにあると書かれていた。

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うっかりそれっぽい橋を渡ると私有地に侵入してしまうので注意が必要だ。
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坂本城址に到達するには、いったん道路に出て迂回しなければならない。
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目印である不動産屋の看板を曲がって、あぜ道に入る。
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細い道なので譲り合って通ることが大切だ。

それにしても、明智光秀といえば誰でも知っているような武将である。彼にゆかりのある坂本城址があまりに適当な、畑の端っこみたいなところにあるのに驚く。目印は不動産屋の看板、道はあぜ道である。

光秀と戦った秀吉の大阪城が、同じように焼失したにもかかわらずエレベーターつきの天守閣を建てて観光地化しているのとは対照的だ。

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私有地と私有地の間を縫うようにして移動して、最後は葦原の中の小道を抜けたその先には……。
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人だかりが!
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これが、そうこれが坂本城の石垣の跡です!
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どう?
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「地味ですね」と言いたくなるのをぐっとこらえる。

これは、坂本城の本丸があったあたりの石垣の跡である。

たしかに、地味だ。

でも待ってほしい。遺跡というのは本来こういうものなのではないだろうか。

ほっておけば朽ちたり燃えたりして消えていくのが木造建築の宿命というもの。イミテーションの天守閣やらで観光地化した城址を見慣れているせいで物足りなく感じたり、何も知らなければ「ちょっと規則正しく並んだ石」にしか見えないかもしれない。でも、手つかずの歴史の跡だと思えばむしろ今日までこれが残っていることが奇跡としか思えない。

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水面が移ろってできたグラデーションが見える。
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後ろの石垣はキーエンスの施設のものなので坂本城とは無関係だ(念のため)

1970年代に発掘調査が行われるまで、坂本城はその形はおろか正確な位置さえはっきりとはわかっていなかった。

市街地がもう少し湖岸にせり出していたり、琵琶湖の波がもっと高かったりしたら、この石垣跡も完全に消滅していたに違いないのだ。

諸行無常を実地に体感できたので行ってよかったと思いました。

行けるときに行き、見られるときに見ておこう

この記事を書いている12月6日の時点で琵琶湖の水位はマイナス64センチ。少し上昇したがまだ城址を見られる値だ。一度水没してしまうと、次に現れるのはいつになるかわからない。

さんざん地味だと言ったけれど、きれいに保存された遺産とはまた違った意味で「歴史」を感じられるスポットなのでオススメです。

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ただ、やっぱり柵がなければ気づかずに通り過ぎてしまうかもしれない。

 

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