吉右衛門 全身全霊の芝居に感銘 – 幻冬舎plus

BLOGOS

2011年7月、人間国宝に選ばれ喜びを語る(写真:共同通信社)

12月1日夕方、スマホでTwitterを何気なく眺めていたら、中村吉右衛門の訃報が流れてきた。

3月に倒れてから、吉右衛門は一度も公の場に出ていなかったから、体調はよくないのだろうと思っていたので、意外性はなかったが、やはり喪失感に見舞われた。

テレビドラマや映画に出ている俳優の訃報と、舞台俳優の訃報とは、喪失感に差が出る。別に個人的に面談したわけではなくても、毎月のように劇場で見ている俳優は、その全身を見て、言葉を生で聞いているので、親しい知り合いのような感覚を抱くものなのだ。

しかし、Twitterに流れてくるのは、「鬼平」の二文字ばかり。吉右衛門の死を惜しむ多くの人のなかで、歌舞伎に言及している人は、1割か2割だった。多くの人にとって、中村吉右衛門はテレビで見る鬼平なのだ。

吉右衛門が『鬼平犯科帳』の長谷川平蔵の役をテレビ時代劇で演じはじめたのは、1989年(平成元)で、2016年(平成28)まで28年間も続けた。平成年間とほぼ重なる。

吉右衛門自身は、いつだったか、自己紹介をするときに「松たか子の叔父でございます」と自虐的に言って笑わせていたが、その親戚関係を知る人も、少数派なのかもしれない。

吉右衛門が歌舞伎座で主役を本格的につとめるようになったのも、『鬼平犯科帳』が始まるのと同時期、平成になってからだ。そして令和になり、コロナ禍に見舞われた。

まさに「平成を代表する歌舞伎役者」だった。

2006年(平成18)から、吉右衛門は養父であり実の祖父である初代吉右衛門を記念する「秀山祭(しゅうざんさい)」を始めた。自身が初代の芸を披露することと、次の世代に伝えることが目的だった。

 

初代の得意としていた演目をひと通りは上演したので、役目を終えたとも言える。

今後、秀山祭はどうなるのだろう。

映像作品である『鬼平犯科帳』は、甥の松本幸四郎が演じることが決まっていた。もともと吉右衛門の実父である初代松本白鸚(はくおう) (八代目幸四郎)のテレビでの当たり役だったので、本家・幸四郎家に戻ったことになる。

しかし「中村吉右衛門」の名跡を誰が継ぐのかを決めないまま亡くなった(決めていたのかもしれないが、公にはなっていない)。

大きな役者の死は、単にひとりの役者が二度と舞台では見られなくなるだけでなく、歌舞伎興行全体へも波及する。

そういう役者のひとりだった。

最後の舞台となってしまった、今年の3月の歌舞伎座で、吉右衛門は『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』の石川五右衛門をつとめた。

この『楼門五三桐』は15分前後しかなく、石川五右衛門の「絶景かな、絶景かな」のセリフで有名というか、それしかないような芝居だ。他にセリフのある役は、真柴久吉(豊臣秀吉にあたる)だけで、この月は松本幸四郎が演じた。

ほとんど動かず、セリフも少ないので、この五右衛門は満足に動けなくなった老優がつとめることが多い。

吉右衛門は1月の歌舞伎座を17日から24日まで休演していたので、3月に『楼門五三桐』を上演すると知った時は、まだ体調がよくなく、負担の少ない役にしたのだろうと思った。だから、失礼ながら、あまり期待せずに見に行った。

ところが、舞台装置と衣装は華やかだが、芝居としては中身のない『楼門五三桐』が、この月は、そこに深いドラマがあった。石川五右衛門の長い物語のなかの一場面でしかないが、その前後を含めた人生のドラマが凝縮され、歌舞伎座の舞台がなみなみならぬ劇的緊張で満たされていたのだ。この15分に全身全霊をかけているようだった。

このどうでもいいような芝居が、演じる者によって、こうも面白くなるものかと感心し、これが舞台の魅力であり、歌舞伎の熱力だと思った。何かが降臨する。

行こうか迷ったが、行ってよかった。

吉右衛門は千穐楽(せんしゅうらく)前夜に倒れ、29日の千穐楽は幸四郎が代役をつとめた。その舞台は見ていないが、何かが継承されたはずだ。

Source

タイトルとURLをコピーしました