夫人が明かす菅原文太さんの真実 – 新潮社フォーサイト

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2014年に亡くなってから7年、俳優・菅原文太の魅力は色褪せることはない。

菅原文太がこの世を去って7年が経った。『仁義なき戦い』『トラック野郎』の大ヒットシリーズの印象が強烈だが、その素顔は役柄とはだいぶ異なっていたようだ。ドヤ街暮らしから一転、ファッションリーダーとなった若き日々。下積み時代の意外な縁。そして夫人だからこそ知るエピソードを、ノンフィクション作家の松田美智子氏が紹介する。

 本年11月28日は、菅原文太の8回目の命日である。

 文太が目標にした高倉健は、奇しくも同じ年の11月10日に逝去しており、昭和の大物スターの相次ぐ訃報に落胆されたファンも多いことだろう。

 高倉は孤高が似合うスターだが、文太は『仁義なき戦い』に代表される群衆劇、あるいは『トラック野郎』や『まむしの兄弟』シリーズなどのコンビ物で輝いた。高倉が去ったあとの東映を支えたのは、文太と言っても過言ではない。

 今年6月に上梓した『仁義なき戦い 菅原文太伝』(新潮社刊)では、文太の俳優人生に焦点を絞った。今回は文太の生涯の伴侶であり、マネージメントも担当していた文子夫人の証言を交え、彼に大きな影響を与えたシーンを中心に据えて、81年の人生を振り返る。

家を出た母に代わって文太を支えた祖母

 1933年8月16日、文太は宮城県仙台市で生まれた。父の菅原芳助は地元の新聞社「河北新報」の記者で、文太は長男、一歳違いの妹がいる。兄妹の境遇に大きな変化があったのは文太が3歳の頃。両親が離婚し、母親が家を出て行ったのだ。

 この事実が文太の心に癒しがたい傷を残す。

 妻が去ったあと、芳助は、幼い子供たちを実家に預けることにした。実家は栗原郡一迫町(現・栗原市一迫)にあり、地域では有名な豪農の家だった。

「一迫で暮らした歳月は彼の心身を鍛え、生きる上での大事な骨格を作ったと思います」

 そう語るのは文子夫人である。実家には従兄弟にあたる男の子が3人いて、文太を子分扱いにした。居候のような肩身の狭い思いだったが、祖母が慰めてくれたという。

「祖母は心温かな人だったようで、誰もが言葉の端々に人柄を懐かしんでいました。その庇護の下にあったことは夫にとって幸せです。実家は町一番の土地持ちだったようで、近隣の人から見たら夫も豪農の家の坊ちゃん。その大らかさが彼には残っていました」

 実際、文太はこの祖母に対し感謝の言葉を語っている。

〈一迫時代の俺の心の支えはお祖母さんだった。自分の満たされない色々な思いを、あのお祖母さんがかなり埋めてくれた〉(「BIG tomorrow」89年4月号)

モデルから「ハンサムタワー」の一員に

 県立築館中学を卒業した文太は、宮城県の名門校・仙台一高に入学。同級生によれば、この頃の文太は黒縁の眼鏡をかけた目立たない存在で、服装も、父親が戦時中に着ていた軍服や将校マント、コートなどで通学していたという。確かに、一高時代の文太の写真を見ると、のちにモデルデビューするとは想像できないほど、地味な容姿である。

 一高からは東北大学を受験したが不合格になり、一浪したのち早稲田大学第二法学部に進学。だが、学費を滞納した結果、2年で除籍になった。その間には様々なアルバイトを経験し、山谷のドヤ街で寝泊まりしたこともある。運気が開けて来たのは、ファッションモデルのアルバイトをしたときだった。そこで「婦人画報増刊 男の服飾」(のちの「メンズクラブ」)の編集長・熊井戸立雄から「雑誌のモデルに」と声を掛けられたのだ。文太は専属のモデルになり、石津謙介のファッションブランド「VAN」の製品を着用するようになった。

「夫は『これは良い仕事にありついた』とモデルの仕事で思ったそうです。仕事帰りに『おい、これもらっていくからな』と気に入った服を持ち帰ったりしても泥棒扱いされなかったのは業界が寛容だったのか、彼の人徳だったのか分かりません」(文子)

 モデルの経験からか、文太がおしゃれだったという証言は多い。元スポーツニッポン記者の脇田巧彦は、「格好いい男でしたよ」と振り返る。

「何を着ても似合う。安っぽいものを着ていても様になるんですよ。それに小顔でしょ。昔の俳優の顔は大きいんだけど、あの人は小顔のスターの第一号じゃないかな」

 だが、妻の文子は「夫の服装は職業上のみだしなみ程度」という。

「流行はどこ吹く風、ブランドにも無関心、幅広のネクタイが流行ると、逆らって細目のネクタイを締めていました。そんな些細な抵抗を周りの誰も気にしませんでしたが、本人的には『流行を追えばそれは人真似、付和雷同』でした」(文子)

 若い頃から楽な服が好きで、ジャケットなどはアームホールがゆったりした製品を置いている輸入専門店をひいきにしていたという。

「夏ならダボシャツに雪駄。一流ホテルには出入り禁止になりそうな服で歩き回っていました。その辺は野面、ずうずうしく自分流で暮らしていました」

 そうは言っても、若い頃の文太がファッションリーダーだったことは間違いない。

 文太が新東宝の宣伝部員に声をかけられたのは58年、銀座の喫茶店で、リーゼントに赤いジャンパーという派手なスタイルでモデル仲間と騒いでいるときだった。

 映画出演を打診された文太は、即座にOKしたが、喜んだそぶりはない。

〈意志薄弱だったから、映画なんて始めたんですよ。意志が強くて、苦労して大学出ていたら僕は俳優なんてやっていないよ〉(「週刊サンケイ」78年1月5・12日号)

 これは東映の看板スターになってからの発言だが、以後も「俳優になりたくてなったのではない」という言葉を繰り返し語っている。

 新東宝での文太は、会社の方針により吉田輝雄、寺島達夫、高宮敬二ら高身長の俳優を集めた「ハンサムタワー」の一員となった。新東宝で文太が出演した映画本数は20本。出演料は安く、しかも遅配が続いた。そして、3年後の61年8月、会社は事実上の破産を迎えた。

 失業を覚悟したものの、「ハンサムタワー」に注目していた松竹から話があり、運よく移籍することができた。61年秋には、篠田正浩監督作品『三味線とオートバイ』に出演している。だが、この撮影で、新東宝時代から続く遅刻癖が出た。

〈撮影の前夜、女と銀座で飲んで、そのまましけこんで、翌日は昼ごろまで寝ていた〉(「週刊アサヒ芸能」76年9月30日号)

 監督やスタッフを怒らせ、クビになる可能性もあったが、主演の川津祐介がとりなしてくれたおかげで、なんとか撮影に参加することができた。二作目の出演作品は、同じく川津祐介主演の『学生重役』(監督・堀内真直・、61年)。移籍して間もないのに、文太は不満を募らせていた。同作で共演した三上真一郎の前で心情を吐露している。

〈「こんな筈じゃなかったんだ! (中略)こんなことになるんだったら、松竹に来るんじゃなかった。約束が違う。約束が違うんだ。松竹は冷たい」〉(「映画論叢」12号」)

 そう言ってすすり泣いたという。このとき文太は28歳になっていた。

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