ネット上の「評価」は何のため? – ヒロ

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「豚に真珠」「猫に小判」という諺はしばし耳にしていない気がします。価値がわからない人にそれを与えても意味がない、という意味です。つまり、真珠にしろ小判にしろそれに価値を感じ、うまく利用できる人ならば意味があるのですが、そうではないこともしばしばあるわけです。

昔、私の上司の部長が30万円の「スーツお仕立券」をギフトでもらいました。(最近は知りませんが、昔はそんなギフトは当たり前。社長や会長就任祝いだとスーツが何着作れたか、というレベルです。)部長曰く「おれ、こんなのもらっても役に立たないんだよなぁ」。部長氏は身長が低く、頭はぼさぼさ、肩には白いものがよく落ちていた人でいわんとしている意味はよくわかります。私には逆立ちしてもアルマーニのスーツが似合わないのと同じです。「馬子にも衣装」と言いますが、私は馬の子にもならないわけです。

つまり、一般に高い評価とされる商品や食べ物でもそれは使う人、食べる人のセンスやレベルによって価値観は大きく変わるわけです。ましてやすべての人が同じ考えではないので高い評価をつける人、最低の評価をつける人様々です。

知らない街に旅行に出かけるにあたり、宿泊先をどこにしようか迷うと思います。宿泊予約サイトには様々な情報が並んでいますが、宿泊者のコメントで5つ星から1つ星までバラバラ並ぶこともしばしば見受けられます。たまたま悪いサービスに当たると「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」になってしまうわけです。しかも赤や青で色付けされた星の数は否が応でも目立つようになっています。読み手はどうしてもそれで先入観を持ってしまいます。これは売る側にとっては高い評価であればよいかもしれませんが、ほとんど意味をなさない余計なサービスだと私は思っています。

私はハイキングに行くにあたり世界最大級の「All Trails」というサイトを常用しています。ここにはそのハイキングルートの詳細な情報や写真と共に行った方のコメントが多数寄せられています。ご多分に漏れず書き手の主観いっぱいの星印評価がついているのですが、私はあえてそれを無視してコメントの事実部分だけを拾い上げる努力をしています。つまり、星があることで余計な手間がかかる、という訳です。

日経に「グルメサイトで評価急落、独禁法違反の恐れも 公取見解 星付けアルゴリズム巡る訴訟で」とあります。あるグルメサイトで評点の基準を変えたところ、今まで高い評価だった店が急落し、売り上げが激減したために裁判沙汰になったという話です。

多くのグルメサイトには評点がついています。3点台が多いと思いますが、その違いは何、とすればそれはむしろ個々の客の感性が決めるものだと思っています。雰囲気、店員の態度、店構え、価格、クオリティなどエレメントはいくらでもあり、それに対して客が何を期待していくのかで重点ポイントは変わるのです。接待、パーティー、デート、孤食…いろいろあるわけです。量が多いことに喜びを感じる人、美しい盛り付けに感動する人、貴重な部位を使った料理への優越感などは個人の主観と期待値であるわけです。それを一般大衆向けに3.5点でした、ということ自体がそもそも時代遅れだと思うのです。

評点には絶対評価と相対評価があります。絶対評価はランクごとのスペックを満たせば誰でも評価を得られるけれど相対評価ならばそれぞれの枠が決まっています。ウェブサイトの評価は絶対評価基準だけれども主観評価基準そのものなのです。なぜならスペックがないため、論理的背景が極めて少ないのです。それはたとえAIでも一つの評点として表すことは不可能なのです。

ある知り合いの親は議会の議長まで務めた立派な方です。ここだけを見ると偉い人で5つ星かもしれません。ところがこの人は家のことが全くできません。部屋の中は乞食の家同然だったそうです。この人の私生活の評点はどうでしょうか?つまり、何処を見るかでそんなものは変わるのです。アルゴリズムとかAIといった表層の問題ではないと私は思っています。

むしろ、評点を勝手につけられる店側や商品の売り手にとって迷惑千万であると私は思っています。

では今日はこのぐらいで。

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