謝れない病で自滅する日本の組織 – 村上 隆則

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提供:株式会社ゲンロン

哲学者・東浩紀。平成を代表する論客として、インターネットを駆使しながら日本文化や社会を論じてきた同氏が、批評誌『ゲンロン』を出版する株式会社ゲンロンを立ち上げてから10年あまりが過ぎた。東氏は、保守とリベラルという対立関係がSNSによって激化する現在の言論のあり方をどう見ているのだろうか。批評誌『ゲンロン12』で発表された「訂正可能性の哲学」の内容とあわせて、話を聞いた。

東浩紀の「保守化」と、力を失った言論

——最近、東さんが「保守化した」とSNSなどで言われることが増えたかと思います。これについて、率直にどうお考えですか

東浩紀(以下、東):保守化したと言えば、保守化したんだと思います。ぼく自身、長年リベラル系言論人たちとやりとりを続ける中で、これは違うんじゃないかなと思い始めたのはあります。彼らの定義でそれを「保守化」と呼ぶのであれば、それはもう仕方がない。

——なぜそうした状況になったのだと思いますか

東:彼らはアカデミズムの世界や、メディアの狭いコミュニティの中で席を取り合っているだけで、世の中にいる一般の人とつながりを持っていないんです。だから、自分とは違う世界観の人が世の中には沢山いるという事実自体を認められない。彼らを「フェイクニュースに騙されている」「ネトウヨに動員されている」と捉えて、「正しい情報を持っているのは自分たちで、メディアはそれを発信すればいい」と言い続けている。

——反対側にいる人たちのことが想像できていない、と

東:コロナ禍でのリベラルの振る舞いも同じでした。政府や専門家は「自分たちが正しいので自粛しろ」としか言わない。それはいいんだけど、リベラルといわれる言論人たちは、本来そういうパターナリズムを警戒する立場だったはず。それなのに今回は、そうした発言に同調して、「みんなで専門家の言うことを聞きましょう」と言い続けました。その底には「自分たちだけが正しい」という傲慢さがあるんですよね。

たとえば、ぼくはワクチンを打ちましたし、家族も打っています。ワクチンは安全だと思います。けれども、反ワクチンの人たちがいることも感覚的にわかるんですよ。そういう想像力がないと「反ワクチンなんてありえない。なんで騙されるんだ」と憤るだけになってしまう。反ワクチンの背景に一つの人生観や世界観があることをもう少し理解しないと、啓蒙するにしても言葉が届かないと思うんです。

——主張の一部分だけを切り取ってやり合ってしまっている状況というか・・・

東:そうですね。そうした様子を見ていて、彼らはそもそも人間一人ひとりが主体性を持ってものを考えているということがわかってないんじゃないかと感じるようになりました。言論人はいつの間にかそういうことがわからなくなってしまった。結果として、言論も力を失ってしまった。

むろんこれは自戒も込めています。自分自身もそうだったと思う機会がこの数年いくつもあって、スタイルを変えなければと思うようになりました。言ってしまえば「世の中にはいろんな人がいる」という気付きをこの年になってようやく得て、リベラルの狭いサークルからは降りた、ということです。それを保守化と言うなら、保守化なんでしょう。

——いま、言論人に求められることはなんだと思いますか

東:地味な啓蒙をやり続けることが求められているんだと思います。たとえば「ゲンロン」は論壇誌ですが、論壇誌と聞いて人がイメージするのって、国とか社会についておじさんたちが偉そうに話している場所ですよね。実際そうなってしまっていると思いますが、本当はそういうことではいけないわけです。公共についてものを考えるというのは、一部の人間の専有であってはならない。いろんな人たちを巻き込んだものでなければいけない。

こういうことを言うと、こんどはすぐジェンダーバランスに配慮しマイノリティを入れるべきだという話になるのですが、それも結局は入れ物の話なんですよね。入れ物も大事ではありますが、そもそものコミュニケーションの足場がない状態で「市民を巻き込んだ公共フォーラムを作りました」と言っても、誰も来ないし議論がもりあがるわけもありません。まずはものを考える人たちのコミュニティを足元から作っていくことが大事。そういう足場があって初めて、公共的な言論ができる場所が立ち上がってくる。

日本には「訂正する力」が必要だ

——東さんが『ゲンロン12』で発表した、「訂正可能性の哲学」では、公共のあり方についても触れられていましたね

東:ぼくは昔から哲学の言葉で「誤配」と言っているのですが、ものごとはつねに、本来なら届かない人に届いてしまい、予想できないことが起こるのが大事なのです。そういうダイナミズムがないと、コミュニティは死んでしまう。その考え方を発展させていくと、「公共性は開放性ではなく訂正可能性の場として設計されるべきだ」という結論になります。論文では、そこに至るまでの哲学的な理路はあります。

ただ一方で、それはとてもわかりやすい話でもあります。ネットでよく「謝れない病」が言われますね。「訂正可能性の哲学」は、この謝れない病批判でもあります。日本人は一度言ったことを訂正できないし、謝れない。これが問題だと思っています。謝れる社会でないとだめですよ。そういうメッセージも込めています。

——訂正すると訂正したことが攻撃されるというのもあるのかもしれません

東:本当にそうなのかなとも思います。一度でも過去の過ちを認めたら永遠に攻撃されるとみんな思っているのは、結局は謝罪や訂正の仕方が悪いからなのであって、訂正したからといってすべてが攻撃されるわけじゃないはずです。

攻撃への対応はコストです。だから訂正をするのはたしかにコストがかかるし、混乱も呼ぶ。でもそれをやらないほうが長期的には組織を腐らせ、結果的により多くのコストがかかるかもしれない。日本は外交を含め全体的にそういう罠に陥っている気がします。方針転換できずに自滅する組織が多い中、いまの日本には「訂正する力」が必要です。

——受け取る側も、訂正に対する寛容さが必要なのかなと思います

東:それはたしかに必要ですね。またリベラル批判になってしまいますが、そもそも寛容寛容と言いながらも、寛容の範囲を自分たちで勝手に決めている人がじつに多い。「自分たちは寛容だ。ただ絶対に許せない相手はいる。そこはきっちり線を引かなきゃいけない」というスタンス。でも、そういうのは寛容とは言わないんですよ。

——寛容な世界、公共な場はどうやったら実現すると思いますか

東:むろん、寛容ならなんでも許すということではない。けれど、寛容の本質は「その場その場の判断」ということなんです。事前に「ここまでは許す」と線を引いても仕方ない。

同じように、寛容な世界をどう作るかということについても、「こうやったらどうですか?」と抽象的に提案しても仕方がない。実際に作るということしかない。

そもそもこの15年、「論壇の危機」だなんだと言って、だれもかれもが分断を超える場が必要だと言い続けてきたし、立ち上がっては消えた雑誌なりプロジェクトも星の数ほどあるわけです。問題提起はもう十分すぎるほどされているんですよ。だからぼくは、これからはソリューションだと思っています。ソリューションは実践でしかない。そしてぼくにとってそれは、ゲンロンを少しずつ大きくしていくことでしかないんですね。

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「分断を越える」という話ではなく、実践が必要

——東さんがいまやっていらっしゃる批評誌「ゲンロン」では、そうした場が一定以上担保されているということですよね

東:ぼくはそう思っています。とくに『ゲンロン12』にはちょっとした達成感があります。この号の目次では、かつてウィトゲンシュタインが「家族的類似性」と呼び、ベンヤミンが「星座」と呼んだような、つながりがあるようなないような、かんたんには言葉では表現しがたい一体性が実現できている。そしてそれこそが「訂正可能性の哲学」で論じたような公共性の体現なんです。

雑誌って、企画を一個立てて、面白そうな人を詰め込めばいいというものじゃないんですよね。それをやっても、編集長がいま面白いと思っているものが並ぶだけになる。ゲンロンも第一期はそういう限界を抱えていたんですが、第二期からは方針を変えて、意図的に星座のような豊かさを目指すようになりました。そこから三号で、ようやくその理想に近づけた感じです。そしてその背景には、ゲンロンやその関連サービスでつながっている人たちのコミュニティが豊かになったことが大きい。

——そうした実践をふまえて感じたことはありますか

東:ゲンロンを創業してこの11年で感じ続けているのは、その昔、論壇なるものが成立していたのは、誰かが雑誌に紐付くコミュニティをきちんと作っていたからだということです。「話題の人を連れてきました」と、まとめサイトみたいな発想で論壇誌や論壇サイトを立ち上げてもだめで、コミュニティを作るところから始めなきゃいけない。そういう地味な下積みがきちんとできて、コミュニティが成熟したときに始めて、新しいメンバーを加えることができる。「なんでこの人が来たんだろう、」「この人はいままでのコミュニティとどう関係してるんだろう」と読者が考えてくれる。そんなふうに人が考えることで、初めて啓蒙は機能するんです。

新しい人、それまでと違った人を入れることも大事です。そうでないとコミュニティは持続しない。いまの保守論壇がそうなっていますが、いつも同じメンバーで、同じことばっかり言っている集団というのは、安心感があるけれど結局は持続しないと思う。成功してる企業やコミュニティは、みんなそういうダイナミズムを持っています。

——東さんのような実践者が増えたほうがいいわけですよね。そこからまた相互に何かが生まれたりすることも当然あって・・・

東:はい。みなさんどんどんやるべきだと思うんですが、本当にこの問題に関しては口だけの人ばかりなのが現状です。保守とリベラルの分断を越えるのが大事だとか、文理融合が大事だとか、とにかく分断をなんとかしたい・・・という話はみんなする。でも一向に分断は解消されない。言ってるだけなんです。「まず自分から分断を超えてくれよ、頼むから」と思いますね。

——分断を越える、という話で言うと、対立する人々と対話をすることすら憚られるという状況もあるのではないでしょうか

東:そうなんですよ。分断を超えるのが大事だとか言っていて、実際に実践したら「敵にチャンスを与えた」と非難するわけです。ならば分断を越えるってどういうことなんだと。リベラルの中には「分断を越えるためには、まずは保守側が間違いを認める」という立場のひとまでいますが、それは分断を越えるのではなく、単に勝利宣言したいだけです。最終的に相手に間違いを認めさせたいのだとしても、まずは対話のテーブルにつかなきゃいけないはずです。

——最後に東さんにとって、いま「分断」だと感じているものがあれば、教えて下さい

東:リベラルと保守の分断も大事ですが、もう一つ伝えたいのは、ものを考えるというのは、言葉だけでできることではないということです。言語を使うのが上手な人には傲慢なところがあって、喋ることだけが考えることだと思っているんですよね。

ところが、実際にはものを考えてもうまく言葉に出せない人は沢山いる。そういう人たちが音楽や絵、コンピューターのプログラムもそうなんじゃないかと思いますが、さまざまな形で思考を表現することがある。彼らが社会の豊かさのかなりの部分を作っているにもかかわらず、いまの言論人はアカデミアを中心とした狭い世界の中に閉じこもっていて、そうした人々とのコミュニケーションを軽視してしまっている。それも一つの分断だと思っています。本来なら、そうした多種多様な表現を読み取り、さまざまな立場の人から刺激を受けるのが広い意味での論壇だと思うんです。

だからゲンロンではアーティストやクリエイターなど、いわゆる言論人だけでない、さまざまな表現者や職業人を呼んでいます。それを続けたことで、「哲学はいろんなものとつながるハブみたいなものなんだな」と多くの人が思ってくれるようになってきた。これがぼくの考える、分断を越えることです。

——ありがとうございました

東 浩紀(あずま・ひろき):1971年生まれ。哲学者・作家。 2010年に株式会社ゲンロンを創業し、同社で批評誌『ゲンロン』を刊行。現在は代表は退いている。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『ゲンロン0観光客の哲学』(ゲンロン、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(河出書房新社)、『テーマパーク化する地球』(ゲンロン)、『新対話篇』(ゲンロン)、『哲学の誤配』(ゲンロン)、『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)他多数。

【期間限定】東浩紀サイン入りの『ゲンロン12』が、ゲンロンショップにて発売中
https://genron.co.jp/shop/products/detail/587

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