不登校:学校に行きたくないのは教員の「ある振る舞い」の問題

アゴラ 言論プラットフォーム

石井志昴「「学校に行きたくない」と子どもが言ったとき親ができること 」を読んでいると教育業界の端っこにいる身として申し訳ない気持ちになってくる。著者自身は中学2年生の時に不登校となり、「もう生きている意味がない」と思い詰めていたという。

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まず、いきなり身につまされるのが、さいしょの章の「子どもは雑談したがっている」である。「チャイルドライン」という子どものための電話相談の相談内容のトップに「雑談をしたい」があげられているという。

show999/iStock

思春期の子どもはなんでもない話をする相手に困っているという。

これは教員をやっている者としては、反省しなくてはならないことだ。

教員も、子どもから話をされる。(されなかったら学級崩壊を疑ったほうがよいだろう)

たわいもない話ばかりだが、まれに深刻なメッセージもある。ただ、ここで教員はだいたい失敗を犯す

アドバイスも含め、じぶんの「意見や知識」を語ってしまうのだ。教員になるくらいだから、そういった「意見や知識」を持っている人が多い。

けれども、この振る舞いをした時点で、子どもとの関係を破壊してしまう。さいしょは決定的な破壊ではないので、棄損すると言っておいた方が穏当かもしれない。

ただ、当の教員は気づいていない。「いいアドバイスをした」くらいに思っている。

その学級の子どもたちが大人しい子ばかりだと、表面上はなにごともなく一年は過ぎる。ただし、多感な子どもが多いクラスだと、落ち着きがなくなる。これを繰り返すと子どもたちとの信頼関係がなくなるからだ。

教員は素朴に言葉の力を実態以上に信じている節がある。ある意味教員たちは近代化を信じているといってよい。

けれども、実社会で長く仕事をされてきた方はお分かりだと思うが、原理的に人間は言葉で説得されることはない。そして自分のことは話すなである。

つまり、きょうび多くの教員に圧倒的に足りてないのは「聞く力」なのだ。

圧倒的に立場の差がある時は、他者は行動を変えるかもしれない。消費者と供給側とか。上司と部下とか。昔の教員と子どもの立場の差もそうであった。

けれども、教員と現代の子どもとの関係は、親と子どもの関係と同様、限りなくフラットだ。

なので、教員が怖ければ行動を変えることはままある。

ただ、こういうことをやっていると当然きしみが出てくる。その結果が不登校や保健室登校だ。(だからこそ私は不登校を否定しない)

もちろん、不登校の問題をはじめできるだけ判断を保留してなんでもかんでも現場の最前線に丸投げの教育行政が諸悪の根源だと、私は思っている。

けれども、教員のスキルとして、最低限の人間理解はもっているべきだとも思っているのだ。

最低限の人間理解

AさせたいならBと言え という教員の間での伝説の名著がある。今の若い人は読まないかもしれない。

子どもに限らず、人間は他人から「Aしろ」と言われたって言うことを聞くものではないのである。

そういった人間理解が教育現場で廃れてきたことに、危機感を覚える。

先生たちはGIGAスクールでますます子どもたちと向き合わず画面とばかり向き合ってしまっているように思える。

親だけでなく学校にできることはまだまだあるのだ。

石井氏の不登校の話にたどり着かないままで終わってしまった。不登校の話はまた次回。

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