自民政権にみるコロナ失政の本質 – 山内康一

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安倍・菅政権の危機管理の失敗の一例として、コロナ病床が不足して一時は自宅療養者が13万人を超えたことがあげられます。あえて「安倍・菅政権」としたのはコロナ発生から1年半以上にわたる政府の怠慢が背景にあるからです。

前WHO(世界保健機関)の健康危機管理官で医師の阿部圭史氏の著書「感染症の国家戦略」によると、危機に立ち向かうにあたっては「No Regrets Policy(=後悔のない対策)」を取るのが原則です。これは別の言葉で言い表すと「戦力の逐次投入は避けるべき」ということです。

危機管理にあたって「過剰と過小のどっちがマシか?」かといえば、「過剰がマシ」というのが基本です。必要以上にコロナ病床を用意していたのに、結局使われなくて「税金のムダ使いだ」と批判されたとしても、平然としていなくてはなりません。またマスコミや野党もこういう場面で「税金のムダ使いだ」などと批判はしてはいけません。

逆にコロナ病床が過小になってしまい、国民の命が失われるような事態が起きれば、それは厳しい批判の対象になります。税金のムダ使いを恐れるよりも、国民の命を救えないことを恐れる必要があります。阿部氏は次のように言います。

危機管理においては、過度な対策の方がマシであると判断される。この原則を「No Regrets Policy」(後悔のない対策)と呼ぶ。危機が発生した際には、No Regrets Policyに基づき、まずはヒト・モノ・カネに関する十分な量の資源を投入して最悪の事態にでも対応できる初動体制を確保した上で、危機管理組織と脅威との彼我の相互作用を通じ、その後に脅威に関するある程度の情報が明らかになってから、過剰な部分を削ぎ落していくことが理想的だ。

コロナ危機が発生してから1年半以上がたちますが、この間にNo Regrets Policyに基づいてコロナ病床や軽症者向けの宿泊療養施設を増やす努力をしておくべきでした。都道府県知事が主管かもしれませんが、国家的な危機にあたっては内閣が思い切った予算措置や人材投入を通じて都道府県の対応を促すべきでした。

危機が発生した際の事態対処行動において行ってはならないのは、戦力の逐次投入である。戦力の逐次投入による弊害は、第二次世界大戦の大日本帝国陸海軍の失敗を組織論的に検証した「失敗の本質」においても繰り返し述べられている。

ノモンハン事件の陸戦においては、関東軍は、ソ連軍が大兵力を展開することはないとの先入観に捉われ、事件発生時の初動の兵力投入量が過小であった。その後は戦力の逐次投入が行われ、物量で圧倒するソ連軍に対して多くの人的損害を増やし、敗退した。

ガダルカナル島の陸戦では、米軍の戦力を過小評価し、一木支隊、川口支隊、青葉支隊、第二師団、第三十八師団という戦力の逐次投入が行われ、消耗戦に陥った。結果、死者8200人、戦病死者1万1000人という多大な犠牲を出してガダルカナル島を放棄の上撤退し、日米戦全体の大きなターニングポイントとなってしまった。

ここで出てくる「失敗の本質」で有名になった「戦力の逐次投入」という概念は、日本の官僚組織と政治指導者の宿痾なのかもしれません。80年前の第二次世界大戦と現在のコロナ危機における対応が重なります。

ちなみに多くの人が座右の書にあげる「失敗の本質」は私も3回読みました。初めて読んだのは2000年に東ティモールに派遣された時で、帰国したスタッフが置いていった唯一の日本語の本が「失敗の本質」でした。

インドネシアからの独立紛争の直後で焼け跡が痛々しい東ティモールで事務所(兼)宿泊施設で、夜は何もすることがないので、じっくり「失敗の本質」を熟読しました。

第二次大戦中は東ティモールにも日本軍はやってきて、山の中の老人から「あなたは日本人だから日本軍の軍票を引き取ってくれないか」と頼まれたこともあったくらいで、日本軍の占領時代の痕跡が残る土地でした。

しかも東ティモール紛争直後の人道援助・復興援助に関わっていたので、危機管理という観点からも「失敗の本質」は興味深く読んだ記憶があります。

残念ながら自民党政権(安倍・菅政権)の「失敗の本質」は、第二次世界大戦時の陸海軍の「失敗の本質」とさほど変わらないものでした。自民党政権は歴史の教訓から学べなかったということです。それにより失われた命も多いと思います。いまの自民党には政権担当能力が欠けていることは明らかです。

*参考文献:

阿部圭史 2021年『感染症の国家戦略』東洋経済新報社

戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾孝生、村井友秀、野中郁次郎 1984年『失敗の本質:日本軍の組織論的研究』ダイヤモンド社

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