政治を語れない自分は「ダサい」 – りょかち

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私には世の中がわからぬ。

私は1992年に京都の田舎で生まれた。バブル時代最後の一年に生まれた私はたっぷりと出産祝いをもらったが最後、失われた10年とともにすくすく育った。

小さな一軒家で、母は「バブルのときはすごかったんやで」としばしば私に、アッシーくんと呼ばれる、冴えないのに自家用車を持って女の子を乗せるためにガソリンを走行距離に変える男性の話や、プレゼントでみんなもらったというティファニーのオープンハートの話をしていたが、自分がそれに比べて貧しい時代を生きていると感じたことはなかった。

59円のマクドナルドのハンバーガー、美味しくて安くて最高じゃないか。それに、見たことがないものはわからない。

生きていて意識がはっきりした頃にはもうとっくに不景気ど真ん中で、延び続ける「失われた◯◯年」を生きている人間として日本で暮らしてきたが、失われ続けているならそれが日常で、何かがこぼれ落ち続けているとか、下向いているだとか思ったことは一度もなかったのである。

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さらに、自分の生活がそういった政治や経済と呼ばれる世の中の大きな方向性と結びついていると思ったこともなかった。

ゆとり教育で急に土曜日が半日投稿から休日になっても、円周率が3になっても私の成績にはまったく関係がなかったし(地元では頭がよい子供だった)、過去最高の売り手市場と呼ばれた2015年卒の就活生だったが、受けたすべての会社で不合格だった。

世の中がどうだろうと、政治がどうだろうと経済がどうだろうと、私には関係ない。だから考える必要もなければ、興味もない。政治家がスキャンダルでやめるそうだ。へえ、だから?誰かがやめても、明日の大学が休みになるわけでもなく、日常は続く。

そんなふうに思っていたものだから、私は本当に社会のことがわからないまま大人になってしまった。ある意味、常にマジョリティかつ中流の、恵まれた人生だったのだろうと思う。

コロナが意識させた、”私たちが生きている場所”

しかし、新型コロナウイルスによってもたらされたソーシャルディスタンスな2年間は、私たちが日本に生きているということを、ひしひしと感じさせるものだった。

グローバルな拠点を持つ会社で働いていた私は、台湾に住む同僚がコロナクライシスを克服して自由に外を歩いているというInstagram storiesを見ながら、「今年の正月は帰れないかも」と家族に連絡していた。オリンピックでひどい発言をする政治家が海外メディアでも話題になって、恥ずかしい思いをした。

コロナが世界を蝕みはじめた2019年の年末、私は27歳で、ちょうどその年齢というのも、社会と本格的につながりはじめた頃だったのだろうと思う。

周りの半数くらいが結婚して、中には子供を持つ者もおり、恋愛市場からの脱却を意味していた”結婚”は、隣に座る友人の日常となり、空想だった子育ても、一足先に子供を持った妹から現実として伝えられるようになった。子供がいなくても、家や車といった資産を持つ友人たちも増えた。

だからだろう、自分が何かアクションをしようとするたびに、自分が生きている「日本」という国が足かせのように私の行動を制限しているような気がした。

恋人がいるけれど、自分の名字を変えて結婚するのは気に食わない。自分が主体になって、子供を育てる自信がない、お金もない。子供を持つ母として働く未来も見えづらい。日本で家を買うとして、あと何年もこの国、あるいは東京に自分は住むのだろうか?

学校を卒業しても、会社をやめても、自分は今、「日本」という組織に所属して、その組織が定めたルールの中に生きている、恥ずかしながらそんなふうに感じることがここ数年やっと、多くなった。

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