ユダヤ民族と「イザヤ書53章」の話

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ヘブライ聖書といえば、通称旧約聖書のことだが、その聖書には「禁止された聖句」があることは余り知られていない。「イザヤ書53章」だ。イザヤは紀元前8世紀の預言者の1人だ。ユダヤ教ラビはイザヤが語ったといわれる53章の聖句を信者には敢えて語らないし、省略されるケースがほとんどだ。なぜ、ユダヤ教は「イザヤ書53章」を追放したのか。これが今回のテーマだ。

ヘロデ王時代の神殿の壁「嘆きの壁」(ウィキペディアより)

考えていく前に「禁止された聖句」「イザヤ書53章」に何が書かれているのかを見る。ユダヤ人は久しく民族の救い主メシアの降臨を待ってきた。その来るべき救い主の運命について記述されているのだ。問題は、救い主が民から迫害され、捨てられ、最後は「われわれの罪を背負って殺される」と書いてあるのだ。ちょっと長いが「イザヤ章53章」を紹介する。

「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。彼はしいたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」

「イザヤ章53章」を読めば、イザヤは来るべき救い主の運命について預言していることが薄々理解できるだろう。敬虔なキリスト信者ならば、直ぐにイエスの降臨と十字架への処刑が預言された箇所と考えるだろう。一方、ユダヤ教徒は「この人物は我々の罪を背負って亡くなったのか」とため息をつくが、それが「イエスだった」と答える信者は多くいない。なぜならば、ユダヤ教徒は「イザヤ書53章」について全く教えられていないからだ。

イスラエルの「Tree of Life ministries」というキリスト教団体の青年がエルサレム市民に「イザヤ書53章」の内容を知っているかと質問すると、1人のラビ以外、知らなかった。誰を思い浮かべるかとの問いに「イエスのこと」と答えたのは1人の市民だけだった。当然かもしれない。先述したように、学校やシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)で「イザヤ書53章」については何も教えていないからだ。イザヤ書53章は「禁止された聖句」だからだ。

「彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」という聖句は文字通り、「イエスがユダヤ人の罪を背負って十字架にかかり、それを信じる者が救われる」というキリスト教の中核の教えに通じる内容だが、ユダヤ教ではイエスの十字架の救済も復活の話も余り教えられない。なぜなら、イエスを虐げ、嘲笑し、鞭打って十字架に追いやったのは、イエスが生きていた時代のユダヤ人だったからだ。

そのユダヤ民族が、「われわれが虐げ、迫害した者の死によって救いの道が開かれた」という内容を後孫に教えることはできない。だから、イエスの降臨とその後の運命について言及した「イザヤ章53章」は久しく「禁止された聖句」と受け取られてきたわけだ。

ユダヤ人たちはイエスが自分たちが待ってきたキリストであり、神が降臨させた救い主だったとは信じていない。イエスがメシアだったならば、ユダヤ人がメシアを殺害したりしないだろう。「イエスはキリストだった」という教えはキリスト教会にとっては信仰の中心だが、ユダヤ教にとっては異教の教えと受け取ってきたからだ。

興味深い点は、「イザヤ書9章」には来るべき救い主の運命について、「イザヤ書53章」とは全く異なった内容の預言が記述されていることだ。

「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる」。

すなわち、イザヤは53章では「迫害され、虐げられる」というイエス像を記述する一方、9章では「栄光の王として降臨する」と述べている。

この難問を解くカギは、メシアを迎えるべきユダヤ人がキリストが降臨した場合、彼を受け入れるか、それとも迫害し、殺害するかで決定するからだ。預言者イザヤはそのため2通りの預言を語らざるを得なかったわけだ。実際は、「イザヤ書53章」の預言が成就され、「イザヤ書9章」の内容は再臨時まで待たなければならなくなったわけだ(イザヤ書は複数の書き手がいた、という説がある)。

それ以降、ユダヤ教には「イザヤ書53章」が削除されたのだ。ユダヤ教徒はイエスがユダヤ人が待っていた民族の救い主だったとは考えないが、同時に、ひょっとしたらイエスは救い主であったのかもしれない、という苦い思いと後悔が払しょくできずに苦慮していたのかもしれない。

ローマ・カトリック教会の総本山バチカンはユダヤ教との対話を通じ、ユダヤ教徒にメシア殺害の咎を押し付けないことで合意している。ただ、キリスト教根本主義グループは依然、ユダヤ民族を「メシア殺人」として酷評してきた。

参考までに、ペルシャのクロス王はBC583年、捕囚されていたユダヤ人を解放し、エルサレムに帰還することを助けている。クロス王の助けを受けて、ユダヤ教はその後、発展していった。「神が選んだ人物」という意味から、ペルシャ王クロスは神が準備したメシアだったと受け取るユダヤ人もいるという(「ユダヤ教を発展させたペルシャ王」2017年11月18日参考)。

ユダヤ民族は神が選んだ民族ゆえに、その責任は大きかった。ユダヤ民族はディアスポラ(離散)として人類の罪を背負って多くの迫害を受けてきた。イエス以後のユダヤ人の苦難はメシア殺害の罪を償うためだったというより、人類の救済を一歩でも前進させるために払わざるを得なかった犠牲と受け取るべきだろう。

いずれにしても、「彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだ」という預言の聖句は救い主を待ち望むユダヤ民族の嘆きとも重なって一層心を痛める箇所だ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年8月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。