戦争を考える

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76回目の終戦記念日を迎えます。これは昭和天皇が8月15日の玉音放送で戦争を止めることをラジオを通じて国民に発したことで終戦としています。一方、欧米ではそれは日本国内の事象であり、あくまでも大日本帝国政府が降伏文書に調印した9月2日を終戦としています。それ以外に中国や台湾は9月3日で韓国や北朝鮮は8月15日を光復祭や解放記念日としています。いずれにせよ、まだ76年前の話ゆえ、戦争体験の話もかろうじて直接聞くことができるし、親や祖父母から生々しい話を聞いたという人も多いかと思います。私ももちろん、聞きました。後世に伝える忘れてはならぬこと、です。

DKosig/iStok

その後、世界では米ソ冷戦はあったものの「冷戦」であって交戦はしていません。一方、中東や西アジア、アフリカなどでは地域紛争が絶えず、現在でも局地的に戦争は起きています。それら局地戦の多くは根本思想に根差したものが多く、妥協点がそもそもないため、「引火性」があり、国民のマインドも常に戦争に備えるという気持ちが高いのだと察しています。また、韓国と北朝鮮も休戦状態がいまだに続いています。韓国は徴兵制度があり、北朝鮮も経済力に比して莫大な資金と人員を国防に費やしているため、両国とも経済的損失は大きいとされます。まさに不毛です。

では西側先進国において今、戦争と言ったらどういうイメージなのでしょうか?我々のように昔の戦争を見聞きしている者としては地上戦や空爆がその強烈な印象かと思います。あるいは二つの原爆や大空襲で日本が焼け野原になった恐ろしさを日本人はわかっています。欧州の人も歴史的に国土が何度も戦場になってきたので身に感じるものはあるでしょう。一方、北米の本土は大戦という形では経験していません。

ただ、アメリカでも戦争には抵抗があります。強い戦争反対運動が起きたのは泥沼のベトナム戦争でした。当時、学生を主体に激しい反戦運動が起き、ヒット曲には反戦を歌詞に込めたものも非常に多く存在します。それでもアメリカは世界の警官となり、イラクへの介入を行い、アフガニスタンへの出兵もしました。アフガンについては20年というアメリカの近代戦争において最長となった出兵も今回で撤退です。それに呼応するようにタリバンがアフガンの街を次々と制圧し、ロシアと中国が懐柔策を模索します。アメリカの20年の努力は何だったのか、という議論は必須でしょう。

切り口を年齢層で見た場合、どうでしょうか?昨年10月の日経に「SNSで揺らぐ平和意識 戦争容認、簡単に『いいね』」という記事があります。10代の男性が「ヒトラーにも人の心があった」とツィートすると「ヒトラーさんへの好感度が上がった」など「いいね」が13000件ついたというのです。記事では専門家が「ごく一部の事例を普遍化して再評価を促す非常に危険な投稿だ」と述べています。ごく一部を切り取り、それだけをもって論陣を張るケースは戦争の話題に限らずあらゆるシーンで増えています。

では実際にその若者たちが戦争に行くというイメージがあるのか、生死をかけてお国のために戦う気があるのか、といえば裕福な国家、地域ほど皆無だと思います。若者はこう言うかもしれません。「お父さん、戦争は指令室でモニターしながら敵の動きを察知してあとはボタンを押して無人機で戦えばいいんだよ。そうすれば誰も死なない」と。

死ななければ戦争をしてもよいのでしょうか?家が壊れなくて、普段通りの生活をしながら戦争が遂行できると考えているのでしょうか?

経済戦争と経済制裁という言葉をよく耳にします。アメリカが中国に対して行っている経済/貿易戦争、北朝鮮やイラン、ベネズエラ、ベラルーシなどに対する厳しい経済制裁の一部は国家が一国では成り立たないことを利用した締め付けです。イランやベネズエラはそれでも原油が出るだろう、と言いますが、輸出制約以前に原油は精製してようやく付加価値が付くのです。精製技術や施設はどこにでもあるわけではないのです。あるいは今後、代替エネルギーが主力になってくれば原油の利権に基づく国威は変わってくるでしょう。勢力地図の変化です。

経済戦争や経済制裁は本質的に言えばリアルの戦争よりタチが悪いのです。理由は戦争は本来、軍人と軍事設備への攻撃に限定されています。(むろん、実態は違います。)ところが経済戦争や経済制裁は間接的に相手国の国民を苦しめることで当該政府にギブアップさせる手段です。日本的に言うなら豊臣秀吉の城への水攻めが好例かもしれません。城へのアクセスを閉ざし、飢えさせるのです。日本ではその後、水攻めは戦略の一つとして普遍化し、例えば西南戦争の際、熊本城への水攻めもありました。

しかし、水攻めは軍人が対象、一方、経済制裁は国民全部が対象なのです。これは厳しいし、ある意味、戦争の定義は軍人に限らず、その国民全部を暗黙のうちに対象にするということが自然の流れになってきたかもしれません。

香港の民主化を力づくで奪い取った中国。これも地域住民への極端な圧力だし、ベラルーシのルカシェンコ大統領もそうだし、ミャンマーのクーデターも誰と戦うかは別として戦争の一種だと思います。

近代戦争は確かに地上戦の泥沼というより指令室のボタンで勝負が決まるのかもしれません。だとすれば尚更それはあってはならぬこと。テレビゲームなどで戦争をゲーム化させ、その悲惨さを理解できない若者にどうやってそれを体得させるか、我々、中高年に課せられた課題は大きいものであります。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2021年8月15日の記事より転載させていただきました。

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