アイリス会長が感激した社員対応 – PRESIDENT Online

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アイリスオーヤマは年間5000億円の売上高となった現在も株式上場していない。その理由を、創業者の大山健太郎会長は「社員を幸せにすることが最優先だから」と説明する。従業員5人の工場を大企業に成長させた経営哲学を、ノンフィクション作家の野地秩嘉さんが書く――。

※本稿は、野地秩嘉『あなたの心に火をつける超一流たちの「決断の瞬間」ストーリー』(ワニブックスPLUS新書)の一部を再編集したものです。

アイリスオーヤマグループの大山健太郎会長
パリ近郊・リューサンにあるアイリスオーヤマ工場の落成式で撮影に応じるアイリスオーヤマグループの大山健太郎会長=2019年6月13日 – 写真=AFP/時事通信フォト

「株式公開すれば創業者利益を手にできるだろうが…」

アイリスオーヤマの創業者、大山健太郎は「売り上げ500万円の会社を5000億円(2019年)以上にした」男だ(掲載当時)。会社を興(おこ)しただけでなく、実に10万倍以上に成長させている。彼には独自の哲学があり、株式を公開していない。「株式公開すれば創業者利益を手にできるだろう。しかし志を曲げ、自由に(会社を)指揮できなければ意味がない」

「事業内容よりも『創業の理念』がきちんと引き継がれることだ。そのためには血のつながった人間による『株式非公開の同族経営』が一番いいように思われる」

「本来、上場とは資金調達に必要だからするものだ。幸い今は資金の心配はない。今の日本には上場のメリットより問題が多いと感じる」

そう大山は言っている。

上場するしないについて、ベンチャー経営者はそれぞれの意見を持っているだろう。

株式公開は資金調達だと本来の目的を考慮に入れて、大山は上場しない決断をしている。株式を公開して創業者利益を得ても何ら問題はないし、本人にとっては得をすることなのだが、彼はそれを捨てた。

大山健太郎の決断の数々を見ると、いずれの場面でも、「自らの得を捨てる」「自分のメリットを考えない」ことを原則にしている。

19歳で社長、11人の家族と従業員を養うことに

大山健太郎は敗戦の年、1945年に大阪府南河内(かわち)郡道明寺(どうみょうじ)村(現・藤井寺市)に生まれた。5歳のとき、布施市(現・東大阪市)に転居する。父親は金属関係の仕事をやっていたが、それをやめて自宅の敷地にプラスチック成型の工場(こうば)を建てた。同居していたのは父母、祖父母、叔父、姉、四人の弟と2人の妹……。13人の大家族だった。

大山が高校3年のとき、父親ががんで亡くなった。長男だったため、19歳で父親の町工場「大山ブロー工業所」を継がざるを得なくなった。ブロー工業所の「ブロー」とはプラスチックの成型技術のひとつで、ペットボトルやポリタンクなど中空(ちゅうくう)の製品を作るときに用いられるものを言う。

さて、彼は大家族と5人の従業員を食べさせていくための戦いを始めた。

当時、大山ブロー工業所が作っていたのは発注元から頼まれた部品で、同社は下請けと呼ばれるサプライヤーだった。そのころの商習慣として、買う側は半年に一度、サプライヤーの納入価格を値切ることになっていた。

度重なる値下げの要求に、彼は大きな決断をする。

独自製品を開発し、自分の意思で価格を決める

「下請け仕事から抜け出したい」

それには独自製品を開発して、最終消費者に買ってもらわなくてはならない。アイデアがいるし、開発には投資も必要だ。それでも、毎回毎回、納入価格を値下げしなくともいいし、自らの意思で製品の価格を決めることができる。

「これだ」と思ったのはプラスチック製、中空の浮き玉(ブイ)だった。それまで養殖、漁業に使う浮き玉はガラス製と決まっていた。ただし、ガラスは割れてしまう。しかも、表面は平らだから、ロープでつなぐにしても、ネットで包まなくてはならなかった。大山はガラス製の短所を補ったプラスチック製の浮き玉を開発し、ロープを施しやすいように、突起をつけ、穴を開けた。穴にロープを通せば浮き玉をつなげることができる。

プラスチック製浮き玉は人気となり、真珠の養殖業者、ホタテの養殖業者など、全国に販路が広がった。今ではガラス製の浮き玉を見つけることが難しい。

下請け仕事から脱却できた「着眼点」

浮き玉の次は、農業マーケットに進出した。それまで苗を育てる箱は木製だったが、軽くて通気性のいいプラスチック製育苗箱を開発したのである。これもまた木製の難点をカバーしたものだ。

同社が下請けから脱却できたのは、ニッチなマーケットに目を付けたからだ。そして、ガラス、木材という素材をプラスチックという新素材に替えたことだろう。

新素材の開発という彼の考えは現在でも通用するし、事実、その道筋で改良されている製品は今も各種ある。たとえば炭素繊維だ。鉄よりも軽くて丈夫だから、飛行機、高級自動車などの一部に使われるようになった。

彼は人があまり目を付けないニッチな分野の従来製品を見て、自分の強みであるプラスチック技術で問題を解決したのである。アイデアマンというよりも、問題を大きな視点で見直し、解決したのである。

「この社長の下だったら頑張ってみるか」

大山ブロー工業所は成長していった。19歳で工場を継いでから8年後、500万円だった売り上げは7億6000万円になった。下請けから脱却するという決断の結果だ。同社はサプライヤーから業界向けプラスチック製品の開発メーカーとなったのである。

大山は社内を一致団結させるため、社員と密なコミュニケーションを取り、自らのことよりも、社員のことを考えた。上場しないという決断の背景には、「まず社員のことを考える」という哲学がある。その哲学が芽生えたのが会社の創業期だった。

工場で機械をチェックする2人の技術者

※写真はイメージです – 写真=iStock.com/ibigfish

当時を思い出して、こう語っている。

「仕事が終わると、よく社員を私の家に招き、母の手料理を振る舞いました。仕事中だけでなく、仕事以外でも社員といろいろな話をしていると『小さな会社だし、給料は安いが、この社長の下だったら頑張ってみるか』と思ってくれるようになります」

「この社長の下だったら頑張ってみるか」が大切だ。

ベンチャー企業、中小企業の社長が部下に対して見せる生活態度とはこれしかない。

成功した後、自分だけが高級車に乗ったり、賛沢なレストランへ行ったりする社長は部下の気持ちを考えていない。そういう社長と長く働きたいと思う社員はいない。

「社長の理想像」を描いて自分を変えていく

大山は若くして会社を継いだから、他社で働いた経験がなかった。そのため、「自分が会社員だったら、どんな会社に勤めたいか」を考えることにした。また、「自分が部下だったら、どんな社長の下で働きたいか」を頭に描いた。「社長の理想像」を組み立てて、その像に向かって自分を変えていったのである。

「社員に情をかけることでした。豪華な食事を一回だけごちそうしても、心は動きません。『うちの社長は何が目的なんだろう』と身構えるだけです。そうではなく、毎日毎日情をかける。情の深さは接触回数に比例するのです」

起業家になるためには構想力、説得力、実践力、結果責任の4つが必要だと彼は言っている。そして、もっとも大切なのが構想力だと断言している。

「起業家には、自己の利益に根差した願望ではなく、市場に何を提供し、社員と共にどう成長し、社会に貢献するかという構想が必要なのです」

プラスチック製品の開発、社員のために理想を追求する。このふたつは彼の構想から生まれたものだ。

もっともつらかった「決断の瞬間」

彼にとって、もっともつらかった年は1978年だ。彼は社員50名をリストラせざるを得なかった……。いまだにそれを忘れることができず、一生の悔いだと発言している。「これからは何があっても絶対にリストラはしない」と自分自身に言い聞かせている。

19歳だった大山が父親の後を継いで始めた会社、大山ブロー工業所は順調に成長し、75年には創業地の東大阪と宮城県のふたつに工場を構え、従業員は200名、売り上げは15億円近い中堅メーカーになっていた。当時の主力製品は農業用の育苗箱。それまで木製だった育苗箱をプラスチックに変えたのは彼の考えだった。

しかし……。

市場を席巻していた同社製育苗箱の値崩れが始まったのはオイルショック(1973年)から2年が過ぎたころだった。蓄えた資金は枯渇し、彼は金策に走る。手形のジャンプ(支払期日の延期依頼)を繰り返したが、ぬかるみに足を踏み入れたような状態で業績は元に戻らなかったのである。

そして、78年、彼は東大阪の工場を閉鎖し、生まれた町から宮城県へ移ることを決めた。創業時から家族同然と思い、仕事をしてきた従業員をリストラすることになったのだった。

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