小山田が炎上も作品価値変わらず – 紙屋高雪

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 小山田圭吾の件を今さら書く。

 ぼくは、フリッパーズ・ギターを友人の影響で聴き始め、中毒になり、デートで車に乗ればいつもかけて、自分としてはそれ以外に買ったことのないクリップビデオまで買い、自分の結婚式(会費制の「結婚を祝う会」)で入場と退場において流した*1ほどにはファンであった。

 小山田と小沢健二がソロになってからはそれとなく追ってはいたが、フリッパーズ・ギターがなくなった時点で興味は失せてしまったいたのだと思う。ぼくのなかからはフェードアウトしていった。小山田や小沢個人に入れ揚げるということはなかったのである。

  現時点で、フリッパーズ・ギターを聞くことはあまりないけども、それでも思い出したように年に数回くらいは聴いてきただろうか。

作品は独立したものであり、したがって作品と作者は別なもの

 ぼくは、作品というのものは、作者のものだけでも読者のものだけでもなく、社会に解き放たれた段階ですでに独立した存在だと考えていて、作品の評価は客観的に定めることができるという立場である。したがって、「作者しか本当のことはわからない」とか「読者一人一人の中にしか答えはない」とかいう立場は取らない。

 ということは、作者と作品は別なものなのである(関連はあっても)。

 だから、作品の価値は、作者がどういう人であろうと、基本的に(あくまで「基本的に」だが)独立した問題なのである。

 ちょっと留保を書いておけば、全然関係ないわけではない。作品で描かれた価値が、作者のどういう動機、意図、性格から紡ぎ出されてきたかを導き出すことはできる。しかし、それだけだ。それが色濃く出てしまう作品もあるし、そうでない作品もある。作者の意図と反対の評価を受ける作品もある。

 ゆえに、フリッパーズ・ギターの作品がいいと思ってきたし、いいと思っている人は、小山田が何をしてきたかにかかわりなく、これからも聴けばいいのではなかろうか。

 ある作家が家庭内暴力をしてきた人だからといって、その作家が書いた小説や戯曲の価値が基本的に変わることはない。

 ある作家が、巨大な暴力である日本の侵略戦争の一コマを絶賛した詩を書き、侵略戦争に賛成をしてきたからといって、その作家のすべての作品が否定されることもない。

 「小山田圭吾」の問題として語れるのは、ここまでである。

人物の起用に基準はあるか

 さて、今回のオリ・パラにおける焦点は作品そのものではなく、作家の起用である。

 何らかの問題がある作家を起用して、その作家を外したりすることに何か問題が生じるだろうか。

 私企業や民間団体の場合は、結社の自由がある。

 私企業や民間団体が自分たちの基準で、誰を採用し採用しないか、またその人を途中で外すかは、その私企業や民間団体の自由である*2

 たとえ誰かを降板させる理由が、不当な風評に対して、「企業イメージを悪化させないため」という逃げ腰のものであっても、私企業には降板させる権利があるだろう(もちろん、世論はそれに抗議する権利もあるが)。

 では、公的な団体、例えば地方自治体の場合はどうか。

 これは住民の意思やそれを反映した法令に基づかねばならないので、首長や担当者の勝手な思惑で行われたら、それに対して批判するのには道理がある。つまり自由とは言えない。

 ではオリンピック・パラリンピックはどちらなのだろうか。

 ぼくは今のところ判断がし難い。

 国家や自治体が深く絡んだプロジェクトだから、おそらく公的なものに準じる団体でありイベントだと考えていいだろう。ただ断言はできない。

 しかし仮にオリ・パラが公的な団体・イベントだとしてもそれは何に則るべきなのか。たぶん五輪憲章なのだろうが、それでいいのかどうか、よくわからない。

 従って、あくまで推論で言えば、「五輪憲章に反する人物の起用は認め難い」ということが暫定的な結論にはなる。一般論だが。

 しかしすぐにその「暫定的結論」は揺らいでしまう。なぜか。

 この「五輪憲章に反するものは認め難い」という基準は、それならば、厳格に他にも適用されるべきことになるからだ。様々な角度から「五輪憲章に反する」という人物や事態は洗い出されることだろう。それを徹底するのであれば、それはそれで一つの理屈ではある。

 だが、例えば、巨大な人権抑圧をしている国でオリ・パラを開催することは妥当なのか、あるいはそのような抑圧をしている国で抑圧に加担しているかもしれない人物を開会式や閉会式に関与させていいのか、などの問題にまで発展していくことになる。これは相当な徹底を覚悟しなければならない。

 だから、小山田圭吾や小林賢太郎を実際どうすべきだったのかは、今のぼく個人では何とも判断しようがないなというのが正直なところなのである。そのために、具体的問題の是非としては語ることはできず、あくまで推測に基づいて一般的な原則を確認することしかできない。

オリンピック・パラリンピック中止のために共同を

 オリンピックが始まった。

 始まったが、感染を拡大するこのお祭り騒ぎは、どう考えても感染拡大防止に逆行するメッセージになっている。そして国家や都市の資源をこのイベントのため集中させてしまっている。始まってしまったが、今からでも遅くはない。やめるべきである。

 小山田圭吾や小林賢太郎や開会式の評価はいろいろあろう。

 また、メダルが取れてよかったね、感動したという人もいよう。

 それは今、まったく構わない。

 感染をこれ以上拡大させないために、途中であってもオリンピックを中止させるという一点で力を合わせようではないか。

 あきらめないで声を上げていきたい。オンラインでもいいし、オフラインでも。

*1:入場は「Colour Field/青春はいちどだけ」、退場は「HAPPY LIKE A HONEYBEE/ピクニックには早すぎる」。

*2:雇用はまた別の問題が生じる。ここではあくまで委託のような対等な契約を想定する。

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