照ノ富士が横綱に 弟子語る秘話 – SmartFLASH

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関脇時代、本誌インタビューに茶目っ気たっぷりに答える照ノ富士(2015年)

「あらためて横綱っていうのはどういう地位なのか、どういう生き方をするべきかということを考えて、親方とおかみさんと相談したい」

 第73代横綱昇進が決まった大関・照ノ富士(29)は、昇進伝達式の口上についてこう語った。

 両膝の怪我などで序二段まで陥落しながら、頂点まで登り詰めた照ノ富士。横綱審議委員会の矢野弘典委員長も、「長い相撲の歴史の中でも特筆に値すべきこと。根性とか我慢、不屈の精神、節制という言葉がありますが、それを思い起こさせる」と絶賛した。

 紆余曲折の相撲人生を送って来た照ノ富士は2010年に間垣部屋閉鎖にともない、現在の伊勢ケ濱部屋に移籍。当時、横綱・日馬富士ら、5人の幕内力士を擁する名門で鍛えられ、順調に番付を駆け上がっていた。

 2015年の最初の大関昇進直前、絶頂期だった照ノ富士は、本誌に豪快な “夜遊び” ぶりを茶目っ気たっぷりに語っていた。

「お酒? あちこちで飲むよ。千葉、錦糸町、銀座、新宿……。昨日は夜7時から友達と飲みに行って、朝4時半まで。友達は潰れて起きてまた潰れてと、2回も潰れちゃった。僕は『ウコンの力』のおかげで大丈夫!」

 各界一、二を争う大酒豪といわれた照ノ富士。大関昇進後はタニマチも増え、毎日のように夜の宴席に繰り出していたという。

 その後、不摂生がたたって成績は伸び悩んだ。さらに、膝の怪我に加え糖尿病を患うなどで休場が続き、2019年には番付を大関から序二段にまで落とした。当時の心境をこう明かしている。

「やめようと思ったことは、何度もありましたよ。大関がここまで落ちたわけだから『やめなくちゃいけない』と、親方に5、6回『引退させてください』と言いに行きました。

 膝の手術を3回したのですが、洋式のトイレにすら座れなかった。つねに隣に人がいないとダメで、車椅子生活のようでした。

 お酒? あれから一滴も飲んでいません。人の3倍努力すると決めて稽古してきました。『元大関なんだから戻ってきて当たり前』と、周囲から見られるのは嫌ですしね。

 番付が落ちれば、付け人をやらなくてはいけないのがこの世界ですが、免除していただいた。それなのに、大関時代に付け人だった子が『これやっておきますよ』と申し出てくれた。嬉しかったし、この人たちのためにもう一度頑張ろうと思えるようになりましたね」

 そしてもう一人、苦しい時期を支え続けたのが、2018年に結婚した妻のツェグメド・ドルジハンドさんだ。同じモンゴル出身で、引退するか悩んでいた照ノ富士に、「あなたがどの道を選んだって私はついていくよ。だめだったら私が働くね」と、優しく声をかけたという。

 兄弟子でもあり、部屋付きの安治川親方(元関脇・安美錦)が語る。

「稽古のとき、奥さんが車を運転して部屋に来るんですが、わざわざ車を降りて挨拶するなど、礼儀正しくてしっかりした方ですよ。照ノ富士の体調がよくなってきたのは、食事の管理をはじめ、奥さんのサポートがあったからでしょう。照ノ富士は、もともと投げやりなところがある性格。そんな気持ちをうまくつなぎとめてきたのも、奥さんじゃないかな」

 さらに安治川親方は、照ノ富士自身のある心境の変化を指摘する。

「今場所、白鵬を倒して綱取りということを誰よりも意識していたと思うし、これを逃すつもりはないという意気込みを感じました。

 ただ、本人は『長く相撲を取るつもりはない。太く短く』と言っています。場所後半になると膝への負担が大きくなり、痛みが出てくる。現実として、残りの力士生命はそれほど長くないかもしれません。

 そして今、その力士生命を燃やして燃え尽きるまで、思い切り相撲を取るんだと。私の目には、今の照ノ富士がそのように見えています」

 太く短く――。不退転の決意で、各界の頂に立つ。

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